フクシというサービス業≪客前であることを楽しめるかどうか≫
とある医療職につく身近な女性が、喫茶店でこんなことを言う。
「飲食の仕事って・・・大変やんなぁ。やることが多岐に渡ってるっていうか・・・・」
彼女は、人前があまり得意ではない、そして計算があまり得意ではないので、「緊張スル前提で、やることが山ほど・・」そういうことを言ってるのだろう。 一応、「どの仕事もいっしょちゃう?」と伝えてみて、改めて思う。
「そうなんよね。介護であれ、医療であれ、客前で色んなことをすることは変わりがない。」
また同時に, ハッとする。
「そうか。客前であることを意識して各業務にあたるか、どうかは、シゴトの成果やセルフマネジメントにおいて大きな違いになるなぁ」と当たり前に認識してきたことを再認識する。
小難しくいうてもしゃあないので、シンプルに・・。 顧客を無視したサービス、利用者不在のサービスは、なぜ良くないのか。
その理由はシンプルに「おもんないから」ではないだろうか。
その「時間空間がおもんないから」モチベーションは上がらないし、 「おもんない時間にささやかな彩を加えよう」という繊細さはもたらされまい。
この「おもしろくない」という印象程、線引きは曖昧なくせに、色の濃い汚れは類をみない。ちょっとでも、「おもんない」空気だと、そこにいるすべての人は汚染される。
もし、そこが「レストラン」で、お客様が「健常者」で「お金をもってる」人達で、「選択権、強権をブルンブルンふるう」人達だったなら、さて、どうだろう。(あー、それが良いって意味ではなくね。意識の問題すよ)
働く人は、内心びくびくしながらも、「もっと、ちゃんとしよう」「ちゃんと喜んでもらおう」「お客さんが喜んでこそ」と思う割合が多少、増える。(バランスの問題だけどさ)
大切なことは【フクシのフクシらしさ】、、、みたいな話ではないと思うのだ。
サービス業として、顧客をどう意識するか。
だって、就労時間/勤務時間8時間とか~夜勤16時間とかの単に「オシゴト」です。
やたら前向きぶっても「顧客様の為に・入居者様の為に」
開き直っても「お金の為に」
なんにせよ
義務的に・強制的に・道徳的に・ヒューマニズム意識して、「いいシゴトできる」わけないじゃないですか。
(そして、別目線だけど、店員が朗らかにコミュニケーションをとって、元気がいいなぁと思わせるのなら良しだが、明らかに、自分らの好き勝手にしてたなら、そんな店まず、楽しいわけないよね。「いわずもがな」な当たり前のこと。)
どうせ同じ8時間過ごすなら、「いかに楽しく過ごせるか」「どうやったら、無駄省いて、もっと楽にやれて、かつ、人をいやな気持にさせないか」考えた方が、結果として「いいシゴト」になると思いませんか。
そう。どうせ、お仕事なのである。
よくもわるくも。
飯を食う為に選んだ、仕事なのである。
せいぜい、就労中は、その場を楽しく過ごしたい。
目の前にいるお客さんの視線や、表情を意識して、良くも悪くも「いい気分にさせて」こっちもいい気分になる時間を過ごそうじゃないか。と自然に思えた最初が僕の場合は、飲食業だった。
どうせなら息の長い接客サービス、キャリアパスの組みやすい接客サービスを・・と高齢者介護業界にお世話になることにしたのだ(15年ほど前)
しかし、おなじサービス業のはずだが、飲食業とフクシ業界には、そのあたりに違いが大きかったね。
やたらとみんな楽しくない仕事を歯を食いしばってやっていた。(いい仕事する人も、ろくでもないことばかりしてる人達も、総じて)
フクシ/介護/医療の仕事の一番のネックは、ヒューマニズムの海で溺れかけてる苦しみだと思う。
なかには、その海でうまいこと泳げる人もいるし、うまいこと波乗りできるツワモノだっているのだけれど、根本的には、「人間らしさ」「道徳的」というものは、わざわざとってるつけるようなものではないはずだ。
強制されるほどに形骸化していくヒューマニズム。
「人前」「客前」をいかに、セルフコントロールにつなげるか、モチベーションにつなげるか。
「その仕事は誰のための仕事なの?」ということであり、
「その時間は誰の為の時間なの?」ということである。
あなたはヒューマンという動物として、野生を発動できる環境で、
自分の時間を生きているだろうか?
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