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パブリックメモリーとして秋美と山衣をほどく時に。


秋田公立美術大学10周年プロジェクト「美大(あきび)を解く(ほどく)」の展覧会『美大10年』が会期後半となり、永沢碧衣作品『山衣をほどく』の展示が始まったとのこと。先日話した、私の脳ミソの石田徹也への呪縛をほどく機会ともなるか、、、は個人的な話として↓
(「永沢碧衣『山衣をほどく』、そして石田徹也。」)


深い自然と、自然ゆえの災害の有様までも懐に抱いて巡りゆく、死んでゆく熊と山々を描いた『山衣をほどく』は、まさに私たちに先日降りかかった豪雨災害を想起させずにはおかない。

人は、辛い出来事に直面した時、それを想起するものを見る事が出来なくなる。光景が繰り返し脳内で再生されてしまい、その体験から抜け出せなってしまうから。例えば震災や戦争の遺構も、その重要性は認識しつつ、直接の体験者への配慮は繊細に考慮しなければならない。作品も同様で、さらに鑑賞者というのは、作家の意図を越えて、それぞれの体験と立場というレイヤーから、それぞれの価値に照らした意味を、自分勝手に作品に塗り込めてゆく。
その上で、作家は、それに対する責任を、表現の自由という権利とともに引き受けてゆくことになる。

このような時に、このような展覧会が開かれている事について、どのような意味を見出すのか、についても、私たちがそれぞれの体験から、それぞれに意味を込めて膨らませていくものだと思うし、それらのすべてが正しいと思う。
けれども、私たちがあらためて目の当たりにした、自然の激しさと、私たちがその懐の中でこのように思考し創造し、生きてきた有様を、今一度この胸にとどめるという、私たちの “パブリックメモリー” として、『山衣をほどく』とこの展覧会が機能し、未来へ循環し始める、その有様を、私たちは目撃しているのかもしれない。

私自身はそう受けとめている。

展覧会『美大10年』
永沢碧衣

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