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イエスを慕う人々との、3つのお話
あるキリスト教会を見学させていただいた。教会は、その歴史的価値から当地の文化遺産にも登録されている。
お邪魔にならないよう、礼拝の時間を避けて訪ねると、たまたま会衆の方が一人いらっしゃって、快く中を案内してくださった。
静かな教会内を見てまわるうちに、礼拝堂とは別に、小さな祈祷室のような空間がひっそりとあることに気が付いた。
聞いてみると、
そこは祈りのための部屋だけれども、教会がお預かりしている、亡くなった信徒の方々の遺骨が安置されているのだった。
何故、預かっているのかといえば、
例えば、ひとつの親族、家族の中で、自分だけがキリスト教に改宗していた場合、先祖代々からの仏教の菩提寺があるために、自分が亡くなった時、親族や家族としては、ご先祖と同様に檀家として仏式の葬儀をしたい、一般的に皆がそうするように、お寺のお墓に入ってもらう、ということがある。
その時に、自分はキリスト者として、せめて遺骨の一部だけでも主イエスのもとへ。そう願われていて、ご遺族からお預かりすることがあるのだ、とのことだった。
私はキリスト者ではないし、特定の宗教のみに篤い信仰を持つ者でもないが、生まれる前から当たり前のように菩提寺があり、死んだらその墓の下に埋まるのだということを、ほとんど生活様式のように受け入れている。
クリスマスや結婚式をはじめ、これほどキリスト教的イベントごとを受け入れている日本国内に、実際にキリスト教徒は僅かに1%ということを考えてみると、埋葬ということにも、私には想像できないような思い、望みがあるのだろう、と、この時に初めて思い当たった。
一方で、イエスとその使徒たちは、宣教の始めは異教徒であり、マイノリティとしての苦難に満ちていたはずだ。
数の少ない日本人キリスト教徒にとって、その姿は自分たちの境遇と重なり、かえって力強いアイデンティティや希望に転換されてもいるかもしれない。
─────
近所のおじさんが急逝した。
無口な人で、私は道で会った時に挨拶をする程度の接点しかなかったが、出棺の際に車が家の前を通ったので、外に出て見送った。おじさんの家は曹洞宗の檀家で、葬儀もそのお寺で粛々と執り行われたようだった。
数日後、夢を見た。
こんな夢だった。
玄関チャイムが鳴り、出てみると、修道女が一人、立っていた。
地元では見たことのない修道服だったので、いったい何処から来たのか不思議だった。彼女は小太りで眼鏡をかけていて、気のよさそうな姿がステラおばさんに似ていた。
そして、まるで畑から掘った芋でも抱えるかのように豪快に、木彫りのマリア像を持っていた。そして、人を探している、という。
「確かこの当たりのはずなんですけど~」と、だいぶ歩いてきたのか汗を拭きながら、私の前に無造作に、そのマリア像をドスンと置いてしまった。
何処でしょうね~と、私は何故か、訪ねる先の名前も聞かないままに、外に出て探し始めた。
少し歩くと、急に景色が変わった。
目の前に突然ガードレールが現れて、下を覗くと蜜柑畑が広がっていた。蜜柑畑の先には海と、そして空だった。
修道女はもうおらず、私は一人でたわわに実る蜜柑を眺めながら、「蜜柑か。ずいぶん西まで来ちゃったな」と無感情にガードレールにもたれると、目が覚めた。
目が覚めても、夢の感覚が生々しく五感に残っていて、夢だった気がしない。何日も変な気分だった。
さらに数日後、おじさんのご家族に道で出くわした。
「やっと片付いた」とおっしゃる。身内が亡くなると、やることが山ほどあるので、そういう意味でやっと落ち着いたのだろうと思ったが、「いや実はね、」とおっしゃる。
「実はね、ウチであの人だけがキリスト教徒だったの。部屋にあった祭壇なんかを勝手に片付けるのに気が引けて、盛岡から神父さんに来てもらってやっと整理した。」
全く存じ上げなかった。わざわざ話すことではないのでそれはそうなのだが。盛岡から、ということは正教会だろうか。
私の夢は偶然だが、
おじさんは、自分がどう弔われるのかについて、何か望んでいることが、あっただろうか。
─────
目の前に墓地があった。
資料によると、ここはもともと、江戸時代からの歴史があるお寺のあったところだが、明治維新で幕府の後ろ盾を失い廃れてしまったとのことだ。
お寺のほうは跡形もないが、墓地は今も健在でお詣りの形跡もしっかりある。しかし、やはり年月に負けて傾き草に埋もれ、頭に苔を乗せたお墓もあちこちに見られた。
その中に、私に背中を向けている墓石が気になった。ごく一般的な仏式の形をしており、規模も小さくなく、綺麗に整えられていた。
裾には墓誌があった。墓誌とは、先祖代々の戒名や没年月日が彫られているプレートのようなものだが、少し近づいてみると、ほかは墓石よりも新しく見え、ご子息とおぼしき3人の名前が建立者として記されていた。私は今、このお墓の背中を見ているので、つまりそれは墓誌の裏面ということになる。
亡くなった父親のために、ご子息がわざわざ設置した墓誌。そこに書かれているのは、何だろう。功績か、座右の銘か、送る言葉か。
とても気になった。
ついに好奇心に負けて、私は墓地の通路に入り、そのお墓の正面に回って、見た。
『いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛である。このうち最も偉大なものは、愛である。(コリント人への第一の手紙13-13)』
全く予期しなかった聖句の出現は、彼ら親子の連帯を証するようで、激しく私の胸を突いた。
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