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“Nigra sum”は東北の3月

震災から数年間、3月になると言いようのない重苦しさを感じていました。

あの日、ここ秋田は奇跡的にも大きな被害がなかったのですが、毎年3月になると、追悼、というのとはちょっと違う、重い空気が漂いました。楽しいことをするのも、楽しいことを言うのも憚られるような、罪悪感。きっと日本中がそうだったのでしょう。

そんな中で、ある時、モンテヴェルディ「聖母マリアの夕べの祈り」の“Nigra sum(私は黒い)”の音源を聴いていて、私はふと、震災以前に当たり前にあった、心地よい3月、を感じたのです。


「聖母マリアの夕べの祈り」はバロック音楽最初期のキリスト教曲で、その中で歌われる“Nigra sum”は聖書に編さんされている雅歌がもとになっています。しかし雅歌そのものは、誰が何のために書いたのか、そもそも宗教的な意味があったのか、はっきりしたことは分かっていません。そこに出てくる言葉も、そのままの意味として理解していいのかどうかも、諸説あるものです。


やっと雪が解けて、冬が終わったことをはっきりと感じる。色のなかった地面に明るい春の色が見えはじめる。そうして、心も体も開いていき、体の内側から、だんだんと新しいエネルギーが膨らんでくる。


東北の3月は、そういう時です。

Nigra sumを聴いているうちに、本来のその感覚が蘇ってきたのです。

春を味わってもいいのだ、当たり前の春の感覚を、味わってもいいのだ。

音楽と演奏家のハートによって、私はその宗教的な意味や思想を超えて、癒やされたのです。


共感すること、寄り添うこと、祈ることとは、

悲しみのところまで下りていって、そこに居続けることとは、似ているようで全く別のことなのですね。


Nigra sumを繰り返し聴いて、私は自分に訪れる美しい3月を取り戻して、重い場所から出てきました。

surge, et veni.


あの時に私が聴いていた音源とは異なりますが、YouTubeにあったNigra sumの動画を最後に貼りました。

私は黒いが美しい エルサレムの娘
それゆえ王は私を愛し
部屋へ導き 私に言った

「起きて、恋人よ、
そして出ておいで。
もはや冬は去り、
雨の季節は終わりました。
私達の地に花が咲き、
刈り入れの時が訪れました。」

Nigra sum sed formosa, filia Jerusalem.
Ideo dilexit me rex,
et introduxit in cubiculum suum, 
et dilexit mihi:

surge amica mea, et veni.
Jam hiems transiit, imber abiit et recessit.
Flores apparuerunt in terra nostra,
tempus putationis advenit.

“Nigra sum”

“Nigra sum” by Jacob Perry 


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