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【短編】葉桜の恋

川縁にはしだれ桜に青柳。
春風にさわさわと揺れる影が川面に映る。
川を静かに流れゆくは花筏。
桜の葬列の如く静謐に送られてゆく。
橋の上からそれを眺めながら溜め息をつく。
緊張感から感傷に浸る余裕もなく、香織はそわそわとしながら、結いあげた髪を気にしている。

春彼岸。
供花を抱えながら、着物の袂に触れる。
お供え物の牡丹餅は、これから待ち合わせする相手と近くの和菓子屋で購入する予定だ。
香織が待ち合わせしているのは、香織の母の弟である叔父である。
香織が落ち着きないのには理由があった。
「お待たせ。香織ちゃん」
香織に一気に緊張が走る。
熱を帯びて薄紅に染まる頬。
香織はゆっくりと振り返り、声の主に微笑む。
「叔父さん。お久しぶりです」
「久しぶりやね」
軽く手を上げて微笑む叔父の修平。
修平の笑顔の柔らかい皺さえ、香織には色気に感じた。
「トルコキキョウか。姉さんが好きだった花やな」
「はい」
香織の胸元で薄紫の花びらが柔らかく揺れていた。
「着物可愛いやん。よう似合うとるで」
「ありがとうございます」
「うん。綺麗やな」
造作もなく紡がれる修平の言葉に、はにかみながら香織は俯く。
でも、きっと言い慣れているんだろう、と香織は内心複雑だった。
外見からしてモテないはすがない容姿をしている修平は、ちょうどいい皺を刻んではいるが、四十路半ばの年齢にはおよそ見えなかった。三十路に見られてもおかしくない若々しい容貌をしていた。
春風に靡く清潔感漂う黒髪、すらりと着こなされた濃紺のスーツ、腕に光る銀色の腕時計に、銀色の……。
修平にしばし見とれていた香織は、修平の薬指に光る指輪を一瞬見てから、目線を逸らした。
「晴れて良かったな」
「そうですね」
「じゃあ。牡丹餅買いに行こか」
「はい」
二人は古都の町を並んで歩く。
ぎこちなく聞こえる下駄の音。
「その着物って姉さんのやんな」
「はい。母が喜ぶかと思って」
「きっと喜ぶなぁ」
「馬子にも衣装って笑うかも」
「そないなことないよ。ほんまによう似合ってる」
修平がそう告げて優しい微笑みを香織に向ける。
香織は自分の鼓動が速まるのを感じた。
過呼吸になりそうなくらいに、心音が狂喜乱舞していた。
頬紅いらずの恋染めの頬は、ほんのりさくらいろ。
葉桜が静かに揺れる町に、さくらいろが密かに揺れていた。

しばらく歩くと老舗の和菓子屋があった。
「姉さんはここの桜餅が大好きやったわ」
「じゃあ。やっぱり供えるのは桜餅にしましょうか」
「せやな。そうしよう」
修平がニコリと微笑む。
二人は香織の母が大好きだった桜餅を買った。
「桜餅ってな、関東と関西で違うの知っとった?」
「え!そうなんですか?」
本当は知っていたが、香織は今初めて知ったふうに可愛く驚いてみせた。
雄弁に桜餅の違いや春彼岸について語る修平の姿を眺めながら、香織は心をほわりふわりと染めあげていた。

長い階段を上ると香織の母が眠る墓があるお寺が見えてくる。
着なれない着物と履き慣れない下駄で長階段は、香織にとって苦難であった。
何度も躓きそうになりながらも慎重にのぼってゆく。
修平もそんな香織を気遣いながら、ゆっくりとのぼる。
「大丈夫?」
修平が手を香織に差し出す。
刹那、心音が跳ねる。
香織はゆっくりと修平の手を掴もうとした時、修平が一段下りて香織の手を掴んだ。
「ゆっくりでええから。気をつけて」
修平のさりげない優しさに、香織は身も心も委ねたくなる。
肩が少しずつ触れる回数が増える。
神様の悪戯か、階段のうえの小さな石ころに香織は足をとられ躓きそうになって、思わずよろけてしまった。
その時強い力で引き寄せられ、修平の胸に香織は抱き抱えられた。
「大丈夫?」
「……は、はい」
夜桜ざわめく花嵐のように、香織の心で恋染めの花びらが乱舞した。
二人を纏うように、桜吹雪の幻影が舞う。
香織は修平を見つめたまま微動だに出来ずにいる。
「香織ちゃん?」
このまま吸い込まれてしまいたいと思うほどの綺麗な瞳。
このまま抱きついて、密か募らせ秘め続けてきた想いを告げてしまいたい衝動に駆られる。
「わ、わたし」
「ん?」
「わたしは」
「香織ちゃん?」
「叔父さん……す、す、す」
「す?」
「す、す、す……し」
「すし?」
「すし」
「あぁ。寿司かいな。香織ちゃんはお寿司が好きなん?」
「……はい」
「そうなんや。じゃあ帰りに回転寿司に寄って行こか」
「……はい」
もう大丈夫です、と香織はゆっくりと修平から離れた。
香織は猛省しながら、心のなかで何度も溜め息をついた。
二人は階段を上り終えて、香織の母の墓石に向かう。
二人でお墓の掃除を済ませて、墓前に桜餅とトルコキキョウを供える。
母のように香織を見護ってきたトルコキキョウが、さわさわと柔らかく微笑むように揺れる。
「今度来るときは、香織ちゃんの結婚報告聞かせてやれるとえぇなぁ」
香織の恋情になど微塵も気づいていない修平は、残酷な言葉を告げて優しい微笑みを浮かべる。
恋染めの心の花びらが涙で滲んでいく。
「そうですね。頑張ります」
震える声を振り絞り、満面の笑顔で応える香織。
「香織ちゃんにはもっともっと幸せになってもらわんとな」

─本当は、貴方に幸せにしてもらいたい。

修平の薬指に光る眩しすぎる銀色を、香織は見つめ唇を噛み締める。
「叔父さんは、今幸せなんですよね?」
香織は修平を見つめる。
どくり……。
「おう。めちゃめちゃ幸せや!」
修平は満面の笑顔で香織に、自分の明白な幸せを告げる。
「なら良かった!」
香織の心のなかで、清々しいほどに散ったさくらいろの花びら。
残ったのは、葉桜だ。
いや……。
恋染めの花びらは、とうの昔に散り落ちていた。
心に舞った花びらは、すべては幻だ。
修平が結婚した日から、すでに葉桜だったのだ。
巡っても逢っても、もう二度と花びらは咲かない。
そう……。
葉桜の恋、だった。
香織の心情に応えるように、寺の境内の葉桜が揺れる。
綺麗な夕日が目に沁みた。
「桜餅美味しかったやろ?」
香織の母にそう語りかけてから、修平が桜餅を墓前から下げた。
最後に二人で、香織の母に手を合わせてお別れを言う。
「じゃあ。帰ろか」
「はい」
二人の後ろ姿をトルコキキョウが優しく見送る。

「お寿司のネタは何が好きなん?」
「えーと。大トロにウニにいくらに……」
「高額なんばっかやん。叔父さん貧乏やねんで」
「姪っ子のよしみで、思いっきり甘えさせていただきまーす」
「勘弁してぇな」
「可愛い姪っ子の言うことは絶対です」
「自分で可愛いいうんかい」
「えへ。言っちゃいました」

─この恋は、やっぱり葉桜でいいんだ。

香織は修平に姪っ子として抱きつき、甘えながら階段を降りていった。

「大トロは譲りませんからね」
「あかんてぇ」



─完─









































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