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西国一の名将 立花宗茂

常勝将軍・立花宗茂です。 

その「武勇と忠義は西国一」と時の関白・豊臣秀吉に絶賛された武将です。

ちなみに、東は徳川四天王の一人・本多忠勝です。

宗茂は、九州の有力大名である大友宗隣の重臣・吉弘鎮理(高橋紹運)の子として生を受けました。

幼い頃から大変聡明で評判が高く、重臣の立花道雪の耳にも入り、男子がいなかったことから婿養子に欲しいと願いました。

道雪は、島津や毛利家との死闘を繰り広げ、斜陽の大友家を亡くなるまで支えました。

その勇猛ぶりを聞き、九州から遠く離れた武田信玄がぜひ対面したいと望んだほどの屈指の名将です。 

当時、宗茂は家督を継ぐ嫡男として育てられ弟もおりました。

にも関わらず、宗茂をぜひ養子に欲しいと望んだ道雪の期待も相当だったようです。

結局は、高橋紹運は大先輩の道雪に押し切られ、宗茂は立花家に入り、相当厳しくしつけられました。

その少年期の聡明ぶりをあらわすエピソードはまたの機会に。

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宗茂が名前を上げるのは、豊臣秀吉の「九州征伐」からです。 

当時、薩摩の島津が大友(耳川の戦い)、龍造寺(沖田畷の戦い)との激戦を制し、九州を席巻するほどの一大勢力に名乗りをあげました。

一時は、九州探題として最大の勢力を誇った大友家も島津家の躍進の前に滅亡寸前までに追いやられます。

紹運は息子達を守る時間稼ぎのために、自ら囮として、763名の兵と共にあえて防御の低い岩屋城に籠り、島津軍50,000に包囲されます。

降伏を促す使者を前に、
「主家が盛んなる時は忠誠を誓い、主家が衰えたときは裏切る。

貴方も島津の家が衰えたときは、主家を捨てて裏切るのであろうか。

武家に生まれた者として、恩と仁義を忘れることは鳥獣以下である。」


その言葉に敵味方を問わず、賞賛の声が上がりました。

50,000もの島津軍の猛攻に城を守る兵は絶望的な戦いに臨みます。

紹運は「傷ついた兵は自ら治療し、水を飲ませ、戦死した兵には自ら経を唱え弔い」をしました。

その恩義に兵の士気は一向に衰えず、主将の紹運以下、763名は一人の逃亡者も出さずに全員が城を枕に玉砕します。

島津軍も3000名の死傷者という甚大な被害を出しました。

敵の総大将・島津忠長は
「紹運殿の戦功と武勲は今の日本では類にないであろう。敵味方に分かれなければ最良の友になれたであろうに…。」

諸将とともに手を合わせ、地に正座し、その死に涙しました。

その後、息子・宗茂の城も大軍50,000に包囲され、何度も降伏を促されました。

しかし、宗茂は
「義父・道雪、父・紹運も主家の為に一身を捧げ殉じたのだ。
 
父の壮絶な死に様を目の前にして、子としてそれに背くことはできない。 

九州中の兵を相手に戦うは武士の誉である。弓矢で応じる故、存分にかかってこられよ」

この言葉に敵方の諸将も
「さすがは紹運と道雪の子よ」と賞賛の声を惜しみませんでした。

その後、九州に上陸した秀吉軍200,000の先鋒として負けなしの働きを見せます。

関ヶ原の戦い前においても、
宗茂の武勇と人格に恐れをなしていた徳川家康は50万石という、当時の宗茂の5倍の領土を条件に熱心に誘います。

しかし、ここでも
「どれほどの領地を約束されても、秀吉公の恩義に背くぐらいなら死んだ方がマシである」と誘いをはねつけています。

もっとも、本戦の関ヶ原には間に合わず、帰国時に、中立を決めていた佐賀の鍋島直茂が攻撃をしかけてきました。

その不義に怒った宗茂は、およそ5分の1の兵力にも関わらず、相手方の9段の構えのうち7段まで打ち破る猛攻を見せつけました。

その後、西軍大名として領地を没収され浪人になりますが、宗茂の忠義と実力を惜しんだ二代将軍・秀忠の斡旋で出世していきます。

大阪の陣では将軍の本陣を守り、豊臣軍による攻撃の際は宗茂自ら采配を取り撃退します。 

三代将軍家光にも気に入られ、結局は旧領の柳川の大名として返り咲きます。 

領地没収から旧領に復活するというのは西軍大名では唯一でした。

立花宗茂の武勇と義を守る高潔さに、昔も今も人を惹き付ける魅力があったようです。

「主家が盛んなる時は忠誠を誓い、主家が衰えたときは裏切る。」

およそ400年前の紹運の言葉通り、
そのような世の中だからこそ「仁義と恩」を忘れずに守る人は、信頼に足る人物といえるのでしょう。


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宮崎貴博(司法試験コンサル代表)
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