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近代から現代の教育の意識が変化してきているワケ(前編)

教育はなぜうまれたの?からはじまって遠い昔から考えてきた。
ここでは産業構造が変わって絶え間なく変化している過去約200年間。
まずは前編、18世紀後半〜世界大戦時の教育の変化を中心に考えてみる。

❶啓蒙思想:「子どもの発見」と発達心理

産業革命による技術革新〜生産性に注目が集まると非経済的で非合理なものをできるだけ排除するの傾向が強まった。そんななか、これまで聖職者,貴族の支配階級に次いで「第三身分(フランスの旧体制※1)」だった庶民から、金融や商工業でお金持ちになる市民階級が出てきた。この層に古くからの慣習や権威など批判し、生活の進歩や改善を求める啓蒙思想※2が広く受け入れられるようになる。

そして、これまで学問は労働を奴隷に任せて、富裕層が空いた時間に教養として学ぶものという背景があり、労働者の学びは職業訓練的な技術や知識を得るだけで、そもそも「教育とは何をすることか?」と考える必要がなかった。その教育とは何か?の「教育思想」が芽生えはじめる。

啓蒙思想家として代表されるルソー※3は教育を論じた著書「エミール」発表。その本は主人公エミールの誕生から結婚までの小説風の長編で「子どもは子どもでなければならず、小さな大人や大人の縮図であってはならない」と大人と子どもの明確な区別がなかった時代に発達心理の考えを取り入れた画期的な本だった。この教育思想は孤児院の設立や、幼稚園の教育事業を起こす ぺスタロッチ(18世紀後半)フレーベル(19世紀前半)といった実践家に影響を与え、引き継がれた。

※1: 旧体制、アンシャン・レジーム(仏語)
フランス革命(1789)以前のフランスの政治的社会的制度(封建制度)。
全人口の98%を占める第三身分には参政権なく納税の義務があった。スクリーンショット 2020-12-01 11.30.54出典:図解世界史(西東社)フランス革命の始まり、市民の不満爆発
※2: 啓蒙思想
伝統的な偏見や迷妄を打ち破って,近代的な合理主義・理性重視を主張し,またそれを一般に普及しようという考え。
近代市民社会の発展に伴う科学的知識の向上・充実を背景に,人間の理性に対する絶対的信頼が生まれ,既存の非合理的な自然観・慣習・社会制度を合理的なものに置きかえてゆこうとする動きが,18世紀ヨーロッパ思想の一般的な風潮となった。これは当然,封建制度・専制主義・教会などに対する批判を生み,アメリカ独立革命やフランス革命などの近代ブルジョワ革命を思想的に準備した。ただし,民衆を無知蒙昧 (もうまい) から救うことにのみ社会の進歩を見ようとした点にその限界をもっている。ヴォルテール・モンテスキュー・ルソーや百科全書派のディドロらは代表的啓蒙思想家で,カントもこの影響を強く受けた。
出典 旺文社世界史事典 三訂版
※3:1712〜78 ジャン・ジャック ルソー
フランスの啓蒙思想家・小説家。スイス生まれ。「学問芸術論」で人為的文明社会を批判して自然にかえれと主張、「エミール」では知性偏重の教育を批判した。また、「社会契約論」では人民主権論を展開し、フランス革命に大きな影響を与えた。著書はほかに「人間不平等起源論」「告白録」など。
出典 小学館デジタル大辞泉

❷国民国家:一体感が必要とされた時代の公教育

18世紀後半から国のあり方も変わっていく。それまでは「何を信じるか?」という宗派対立が盛んだったけれど、国益目的の各国の争い、圧政に苦しむ植民地の暴動が頻繁に起こるようになる。このような争いで統治できなくなった王政はアメリカ独立革命フランス革命といった民衆の革命運動で崩壊。国家の主権は国民が持つという新しい政治のあり方が広まった。

この国民主権が登場したことによって、教育を君主の独占支配からはなし国民のものとして運営する近代的教育管理=学校教育という発想が生まれる。教育の体系、教師がどういう方法で教えるべきなのか、ドイツの教育学者ヘルバルト※は具体的手順を示したことで大きな注目をえる。

ここで大きいのは教師中心の教授方法を築いたこと。教師が生徒に一斉指導するにあたって合理的、かつ有効に進める方法として、教授過程を段階的に区切って定型化した。 それは「明瞭」「連合」「系統」「方法」の4段階。
簡単に言うと「理解して、繋いで、整理して、使わせる」教えの法則ともいえる。後継者が「明瞭」を2つに分け、「分析」「総合」「連合」「系統」「方法」の5段階とした。日本では明治後期この5段階教授法が全国的に普及した。

※:1776―1841 ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルト
ドイツの哲学者,教育学者,心理学者。
1797年イェナ大学を卒業,1802年ゲッティンゲン大学講師,08年ケーニヒスベルク大学教授,33年ゲッティンゲン大学教授。最大の功績は教育学を体系化したことにあり,その教育思想,教育法はヘルバルト学派によって世界的に拡大普及された。彼は教育学の基礎を倫理学と心理学におき,教育の最高目的を徳性の涵養にあるとし,教育の作用を管理,教授,訓練の3つに分けた。明瞭,連合,系統,方法の4段階による教授を唱えたが,後継者による5段階教授法が各国に普及した。主著『一般教育学』  ,『教育学講義綱要』など。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

❸第1次世界大戦:ドイツからデザイン教育の誕生

王政を打破した国民主権の広がりと、産業や海外貿易で得た富の増大によって、株式会社(航海プロジェクトの資金集めが起源)がたくさんできたけれど(不況に潰されそうな)力のない企業は力を持つ企業によって吸収や合併された。それは国家をも動かす巨大企業に、独占資本主義※1に繋がっていく。独占資本と国家権力の結びつきが強まるなか、植民地獲得競争※2が加速。列強国が競合し、外にどんどん膨らむ国策により帝国主義が誕生した。これにより、領地を取り合う世界大戦に繋がっていく。

ここで注目するのは、第一次世界大戦後ドイツで起こったデザイン教育※3。戦争で惨敗していたドイツ帝国で労働者の革命が起こり、ワイマール共和国が誕生。国民主権の政治体制(民主主義憲法の始まりと言われるワイマール憲法が生まれた)がスタート。この新たな政治体制下で、実業家、知識層、労働組合のリーダーなど、市民層から国を動かす人たちが出てくる。これが良かったのか、それまでにドイツ工作連盟に参加してデザインと工業を振興するための活動をしていた建築家ウォルター・グロピウスが初代校長に起用され、1919年に国立バウハウスができる。

バウハウスとはドイツ語で「建築の家」という意味。建築を中心に諸芸術を統合し、手工技術とデザイン能力を兼ね備えた新しいタイプの芸術家を養成するという教育理念で「理論」と「実践」を組み合わせた二つのカリキュラムをもうけたのが画期的だった。資金不足により工房ですぐものを作る環境が整わなかったという説もあるけれど、まず実技の前に受ける予備課程の理論では色彩や形状をモノから分離して分析する視点が生まれ、抽象的な概念を研究する「デザイン」が明確に意識されるようになった。

この20世紀前半は今でも話題にあがるアートムーブメントがたくさん起こった。フォービズムキュビズムダダイズム… バウハウスもひとつの芸術運動としてナチスに政権を奪取されて共和国が崩壊する14年の歴史にもかかわらず、今なおデザイン教育に影響を与えている。

※1:独占資本主義
独占資本が重要産業部門を支配するようになった段階の資本主義
資本の自由競争の過程または景気変動を通して小企業は競争に敗れ,資本が少数の大企業に集中されていく。そうなると資本の移動も困難になり不況期に利潤が少なくなっても容易に回復しなくなる。そこで大企業はカルテルやトラストを形成して生産量を制限し価格をつり上げる。このような大企業を独占資本と呼ぶ。日本は1910年代にこの段階へ移行し始めたとされている。
出典 旺文社日本史事典 三訂版
※2:植民地獲得競争
20世紀初頭に帝国主義的な意味の植民地を所有していたのは、イギリス・フランス・ドイツ・ロシア・アメリカの5大国と、イタリア・ベルギー・日本の併せて8カ国であった。この列強8カ国は、1876年から1914年までの間に、約2億7000万人の住む2730万平方キロメートルの植民地を新たに手に入れ、それ以前に領有していた分に加え、地球の総面積の半分以上を占め、世界人口のほぼ3分の1が住む土地を植民地として支配することになった。出典 木谷勤『帝国主義と世界の一体化』世界リブレット4画像1
※3:デザイン教育
産業革命以降、量産システムの確立と生産工程の分割は、手技をもつ熟練労働者を締め出し、不熟練労働者の増大を生み出した。その結果、製品の質の低下が露呈し、従来の優れた手工技術を伝承・習得する職業教育・徒弟教育制度に代わる、機械による生産方式に適合するデザイン教育が社会から要請されるようになった。産業革命を先駆けて経験したイギリスは立ち遅れたデザイン振興に国家的に関与するようになる。1837年には官立デザイン学校が設立されたが、51年のロンドン万国博覧会で示されたイギリス製品の美的水準の低さは、政府の文官ヘンリー・コールらを、同校の改革および初等教育課程に芸術教育を組み込むことによる底辺拡大へと向かわせた。他方、ウィリアム・モリスらのアーツ・アンド・クラフツ運動は、機械による粗悪品が氾濫する状況に象徴される当時の社会に対する批判として出発し、反アカデミズムに拠る「諸芸術の統合」を訴えた。ドイツでは、同運動の思想に影響を受けたヴァルター・グロピウスが国立造形芸術学校のバウハウスを設立、「芸術と技術 新しい統一」をテーマに掲げるに至った。同校のカリキュラムは20世紀のデザイン教育を基礎付けることとなる。1933年の同校閉鎖後、主要な教員たちはアメリカ合衆国に渡る。グロピウスはハーヴァード大学へ、ミースはアーマー大学へ、モホイ=ナジはシカゴでニュー・バウハウスを設立した。同じころアメリカでは、クランブルック・アカデミーが名声を博した。戦後のドイツでは、バウハウスの志を継承するウルム造形大学が設立され、学長マックス・ビルのもと、プロダクト・デザイン、建築、ヴィジュアル・コミュニケーション、インフォメーションの4学部を設け、後には文化人類学・記号論・心理学の学科がカリキュラムに取り入れられた。またブラウン社に代表される産業界と密接な協力関係を保ち、インダストリアル・デザインの発展に成果を挙げた。68年に閉校したが、その「環境形成」論と実践は、デザイン界に大きな足跡を残している。
出典: 現代美術用語辞典ver.2.0 - Artscape

❹第2次世界大戦:全体主義のナショナリズム教育

第二次世界大戦は関係する国まで含めると60か国といわれている。この戦争の敗戦国はドイツ・イタリア・日本。この3か国の共通する目的は「欧米列強に対抗した領土拡大と軍事支配に基づく帝国の基盤づくり」だった。

国家の目的達成のために国民意識の全集中・統一を急ぎ、排他的なナショナリズム(民族の統一)を国民にあおった。それまで一般庶民においては領地の情報は曖昧で、民族や国民の連帯意識も高くはなかったけれど、敵国の存在によって連帯が必要になってきた。そこで政府が公教育に注力するようになる。この全体主義※教育の代表例としては、ナチス・ドイツがわかりやすい。

教育の目的は「強制的同質化」。教育機関は3つ「家庭」「学校」「社会」とした。
「家庭」ー 強靭な子供を産み育てる種族の維持と発展において健康・安全、しつけが大事だとした。
「学校」ー 政治的世界観の教授の場。教育者は国家権威の代弁者とし、服従を絶対的・無条件的なものとして生徒たちに指導する立場だった。
「社会」ー 青年団や壮年団といった集団組織をつくり労働奉仕(予備軍)となった。

いずれも精神的な(知的な)人間形成よりも政治的軍人育成に重きを置き、盲目的に動く国民を増やした。隙ない教育連携では個人の意思は必要とされず、共同体の意思が優先された。

このような教育が国にどう作用したかは歴史のとおり、悲惨なものになった。政治哲学者ハンナ・アレントは20世紀の政治の惨状を考察した著作「革命について」で理性的な思考や道徳の議論なく、一方的に感情的な(人の共感性を煽る)正義に飲み込まれるのは危険と考察している。

世界大戦は終結し、国連ができた後の1948年、残忍で悲惨な人権侵害の反省と国際秩序を取り戻すため世界人権宣言が採択される。


すべての人間が生まれながらに基本的人権を持っているということを初めて公式に認めた宣言で、第26条に「すべての人は、教育を受ける権利がある」「初等の及び基礎的の段階において無償」「 初等教育は、義務的である」が加盟国の行動指針とされている。

第二次世界大戦が終わって、75年。
幸か不幸か公教育の普及は戦争の国策によって大きく広まったけれど、全体主義的な( 個より全体を優先させる)教育ではなく、
知的で創造的な個人の意向や独立性を尊重した教育になっているか?は次の戦後から現在の教育史で考えてみたい。

※:全体主義 totalitarianism
個人の生活や意見は国家全体の利害に従うべきだという思想あるいは政治体制。大衆社会において,マスコミや大衆組織(大衆操作)を通じて,個人生活のすみずみまで国家権力が浸透し得る状況の下で生まれる。古典的独裁や専制と違い,思想や生活についても徹底した統制を行う。民主主義を否定する原理として,特に第1次大戦後のファシズムやナチズムがその典型。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア

▶︎近代から現代の教育の意識が変化してきているワケ(後編)


※参考
教育思想史 (有斐閣アルマ)
サピエンス全史(上・下)ユヴァル・ノア・ハラリ (著)
21世紀の歴史 ジャック・アタリ (著)
革命について ハンナ・アレント(著)
ナショナリズム入門 植村和秀(著)
日本とドイツ 二つの全体主義~「戦前思想」を書く~ 仲正 昌樹(著)
全体主義の起原 1,2,3 新版 ハンナ・アレント(著)
悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える 仲正 昌樹(著)
全体主義と民主主義の教育―ナチス・ドイツと民主主義アメリカの場合 山田栄(著)


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