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教育はなぜうまれたの?

レッジョ・エミリア の教育思想が生まれた背景に興味を持ち、そもそもなぜ教育が生まれたんだろうと思い、遠い昔のできごとから考えてみた。

❶脳の変異:他者に伝える力を持つ

さかのぼること7万年前、私たちの祖先であるホモ・サピエンス※の脳に突然変異が起きて、新しい思考と意思疎通ができるようになった。様々なことを想像し、記憶、言語化して他者に伝える力を持つようになる。知識や経験をシェアして危険を避けたり、協力によって大きな活動/仕事ができるようになった。人間はソーシャル・アニマルだと、最近よく聞くけれど、ここに端を発している。大きな集団をつくり生活し、文化ができてきた。1万2000年前に農業革命が起き、永続的な定住ができるようになるとたくさんの神話が生まれ、想像を対話し、文化が花開いた。

※:ホモ・サピエンス
およそ20万年前にアフリカで誕生し、世界中に分布したヒト属の1種で、私たちホモ・サピエンスのこと。旧人と比べると、脳容積はやや増加し(1300〜1600立方センチ)、頭は丸くなり、眼窩上隆起は目立たなくなった。咀嚼(そしゃく)器官の退化により、顔は華奢になって奥に引っ込んでいる。骨格は頑丈さが衰えたが、文化的な発達により環境適応力が強まり、急速に世界中に拡散したと考えられる。オーリニヤック型のような精密な剥片(はくへん)石器を作り、芸術活動や音声言語に必要な抽象能力を発達させた。それらが今日の文明を築く基になった。ホモ・サピエンス・イダルトゥ(Homo sapiens idaltu、長老の意)は、エチオピアで化石が発見され、2003年同定されたやや原始的な亜種。新人の起源に関する「出アフリカ説」の重要な証拠として注目されている。
出典 馬場悠男 国立科学博物館人類研究部長 / 2007年

❷紀元前:話すテクニックを学ぶ

古代ギリシャでは「レトリック(弁論の技術とその体系)※」が盛んに学ばれた。「話すことは一種の闘争とみなされ、言葉を武器としてとことん議論する」西洋の伝統はこんな大昔の流れを汲んでいる。今でいうとプレゼンテーション技法とか、ディベート技術のような話芸のテクニックを持つ人たちは知者(ソフィスト)と呼ばれ、西洋で初めての礼金を貰って知識を教授する職業教師となった。

※:レトリック
本来は古代のギリシア語レトリケに由来し,弁論の技術とその体系をさした。1.発想(主題の問題点を探し出すこと),2.配置(1.をどのように順序立てるか),3.修辞(1.2.をいかに効果的に表現するか),4.記憶(口頭弁論のための暗記),5.発表(発声,身振りなどの技術)の部門に分かれて体系化された。これらは中世ヨーロッパに受け継がれ,言わんとすることを明確かつ適切に美しく表現し,文にふさわしい構成を与える言語・文章技術として発展した。書きことばが普及するルネサンス以降,とくに1〜3の部門のみからなる狭義の〈修辞学〉となり,とくに3.に重点がおかれ,技巧が凝らされた。しかし近代の実証主義的学問潮流のなかでは無用の学問とされ,文法論に吸収された。しばしば否定的に〈文飾の技巧〉としても使われる。日本ではとくに韻文において,枕詞(まくらことば),対句,懸詞(かけことば),縁語,序詞などの技法が発達している。
出典 株式会社平凡社百科事典

❸イエス誕生:キリスト教を学ぶ

西洋教育思想のひとつの源流としてキリスト教が出てきたことで学びの流れが大きく変わった。古代教養の上に、神学や哲学をのせて布教とともに広がることになる。スクール(学校)の語源となっている「スコラ学※」は神学・哲学の総称。学びの中心になっているのは「人間のあり方・生き方」をキリスト教の信仰を通して模索すること。我々は動物として生まれたけれど、神の似姿としての「人間(ヒューマン)」を目指すこと、ここに人間の尊厳があるとした。

※:スコラ学
中世ヨーロッパで、教会・修道院付属の学校や大学を中心として形成された神学・哲学の総称。教会の権威を認め、教義の学問的根拠づけを目ざし、13世紀の神学者トマス・アクィナスによって集大成された。
出典 小学館デジタル大辞泉

❹活版印刷術の発明:口授から印刷物からの学びへ

キリスト教の大衆支配がいき過ぎて、聖職者が堕落、教会の腐敗がみられた14世紀の後半。キリスト教が生まれる前の古代ギリシャ・ローマに見られる思想、ヒューマニズム(人間性の尊重)が復活。さまざまな束縛や抑圧による非人間的状態から人間の解放を目ざし、学芸を活性化させたこのヒューマニズムの動きはルネッサンス(人文学・芸術復興)として広がる。この時代に三大発明「活版印刷術」「羅針盤」「火薬」が登場。とくに学びにおいて印刷技術の貢献は大きい。それまで写本中心で教会の権力者たちが良いように口述していた聖書は印刷機の出現によって大衆の手に届き、支配力の強かった教会の権威が(マルティン・ルター※の宗教改革もあって)崩れることになる。

※:1483~1546 Martin Luther マルティン・ルター
ドイツの宗教改革者。1517年、教皇庁による免罪符発行を批判する「九五か条の意見書」によって教皇から破門されたが、これが宗教改革運動の発端となった。ザクセン選帝侯の保護下に完成したドイツ語訳聖書は、ドイツ語史上重要とされる。聖書に基づく信仰のみを説く福音主義に立ち、すべての信仰者は等しく祭司であるとする万人祭司思想を主張した。著「キリスト者の自由」など
出典 小学館デジタル大辞泉

❺宗教戦争:近代の学校の始まり

ルターの宗教改革以降の16~17世紀、カソリックやプロテスタントといったキリスト教宗派の対立、魔女狩り、宗教裁判が増えてきた。領地や権力紛争も相まってヨーロッパ中を巻き込んだひどい宗教戦争(30年戦争)に発展。プロテスタントを信仰して迫害を受けていた教育学者コメニウス※は、平和の確立のためには統一的な思想と知識の体系が必要と考え「全ての人々に教育を与える必要がある(大教授学)」を発表し、一人の教師が多数の生徒を同じ時間内に教えていく現在の教授方法や学校のあり方を作った。読み書きを学ぶための,絵と文字とを結びつける工夫をほどこしたコメニウス著作の「世界図絵」は世界最初の絵入教科書といわれている。

※:1592―1670 Johann Amos Comenius ヨハネス・アモス・コメニウス
チェコスロバキアの教育思想家。チェコ名はコメンスキー。フス派の社会改革思想を継承するボヘミア兄弟団の牧師。三十年戦争の渦中に国外へ追放され,生涯亡命生活を送り,祖国解放を念願とした。人類愛的平和主義の立場から学校教育の改革をめざし,すべての国の男女が,同一の言語によって,階級差別のない単線型の学校体系において,普遍的知識の体系を学ぶ必要を説き,その教授方法を提唱した。近代教育学とくに教授学の祖といわれる。主著《大教授学》《世界図絵》。後者は近代的教科書の先駆とされる。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア

❻英仏植民地戦争:国益を求めた風潮からの人材育成

イギリスとフランスの植民地争奪戦が進む17世紀後半、他国より国力増強を急ぐなか、労働力確保の手段として教育に注目が集まる。思想家ロック※1が教育に対して「ジェントルマン教育論」と「貧民教育論」を発表。
ジェントルマン教育は、裕福な家庭の子息を実務家として育成するために「徳、思慮分別、しつけ、学識」の4つを家庭にて教育するようにすすめ、一方で貧民教育は、貧民の子どもを有用な労働力にし、国家の富を増やす手段として労働学校に通わせることを提案。これは16世紀から始まった救貧法※2の改革議論に繋がる。宗教改革後に発展・分化したキリスト教プロテスタントが労働する能力を持ちながら労働しない怠惰な貧民の存在を非難したため、この風潮は1834年の救貧法改正まで続いた。

※1:1632―1704 John Locke ジョン・ロック
イギリスの哲学者。啓蒙哲学およびイギリス経験論哲学の祖とされる。オックスフォード大学で哲学と医学を学び,シャフツベリー伯の知遇を得て同家の秘書となったが,同伯の失脚とともに 1683年オランダに亡命。彼は認識の経験心理学的研究に基づいて悟性の限界を検討し,知識は先天的に与えられるものではなく経験から得られるもので,人間は生れつき「白紙」 (→タブラ・ラサ ) のようなものであると主張して本有観念を否定した。さらにこの考えを道徳や宗教の領域にも応用し,道徳においては快楽説,宗教においては理神論の先駆となった。政治論においてはホッブズの自然法思想を継承発展させ,当時の王権神授説を批判し,社会契約による人民主権を主張した。主著『人間悟性論』 An Essay Concerning Human Understanding (1690) ,『統治二論』 Two Treatises of Government (90) 。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
※2:1531―1948 救貧法
16世紀以来,イギリスで行われた貧民救済のための法律。救貧法はヘンリー8世の1531年法から始まり,1601年法で完成した。ヘンリー8世が1536年に行った修道院解散は,中世的教会の貧民保護を停止させた。さらに,当時のエンクロージャー(土地囲い込み)による農村人口の減少,産業の発展,貨幣悪鋳などの諸要因とあいまって,貧民が大量に発生し,その対策が必要とされたのである。1601年のエリザベス救貧法は浮浪と乞食の禁止と処罰,児童と成人を問わず労働能力ある者の就業,無能力者の保護を末端の地域自治体である教区に命じた。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版画像1出典 1834年改正の新救貧法による懲治院の実態を批判するパンフレット

❼産業革命:資本主義の社会構造による労働者育成

18世紀後半、イギリスに始まった産業革命は、エネルギーの変革と言われている。それ以前は人力での作業が主だったけれど、木綿工業での機械の発明、さらに蒸気機関の発明にともなう石炭利用でエネルギー効率が格段によくなり生産性が上がった。木綿工業から始まった技術革新は、機械工業、鉄工業、石炭業といった重工業の流れをつくり、さらに鉄道や蒸気船の実用化という交通革命をもたらす。このような社会の激しい変化は人口の急速な増加を後押しした。この人口増加(人口爆発※1)に伴って社会や産業が構造化され、事業経営する「資本家」と雇われて働く「労働者」という資本主義の階層※が現れた。

教育においては産業の発展に必要とされる労働者育成のための職業訓練(同業組合学校や徒弟学校)と教職者育成の職業学校が主流だった。
職業訓練ではなく人間形成上の学問は上流階級に限ったものではなく,広く一般庶民にも必要という変革は19世紀以降に続いていく。
このお話は次回!!!

画像2※1:人口爆発
世界の総人口が急激に増加したのは,ヨーロッパを中心に産業革命が進行した18世紀後半から19世紀にかけての時期で,これを第1次人口爆発という。その後世界の人口は加速度的に増加しているが,特に1950年以降の急増は幾何級数的で(1800年―1900年の年人口増加率は0.5%,1950年―1960年は1.8%,1960年―1965年2.0%),1950年に25億だった世界人口は1970年には37億と,20年間で12億増加しており,これを第2次人口爆発という。第2次人口爆発は医療の普及による死亡率の急減に対し高い出生率が続いたもので,主として発展途上国にみられる。第1次人口爆発は商工業の発展と植民地への人口流出などによって過剰人口を吸収できたが,第2次人口爆発は産業の発展が伴わず,第三世界における貧困,食糧問題,雇用問題を発生させ,先進諸国への国際労働力移動をもたらすなど世界的な問題となっている。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
画像3※2:資本主義のピラミッド
1911年の世界産業労働組合による
ポスター。
各層は上から
「我々はあなたを支配する」
「我々はあなたを騙す」
「我々はあなたを撃つ」
「我々はあなたのために食べる」「我々は皆のために働く、我々は皆を養う」
出典 Pyramid of Capitalist System, issued by Nedeljkovich, Brashich, and Kuharich in 1911. Published by The International Pub. Co. , Cleveland OH.

▶︎次回「近代から現代の教育の意識が変化してきているワケ(前編)」

※参考
教育思想史 (有斐閣アルマ)
脱学校の社会 イヴァン・イリッチ (著)
サピエンス全史(上・下)ユヴァル・ノア・ハラリ (著)
21世紀の歴史 ジャック・アタリ (著)

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