グッジョブ!〜三十路を過ぎて三歳児から英語で褒められた話〜

ラスベガスの生活が板についてきた。

とはいえ、以前から続くグータラな生活自体は一ミリも変わらず、単にスーパーや、公園や、学校や、その他諸々のルーティンが定まって来たというだけの話なのだが。

目下、ドラえもんにだだハマり中の娘(満3歳)は、1ヶ月前から現地の保育園に1日4時間だけ通うことになった。

というのも、7月生まれの娘、9月から新学期が始まる米国ではいわゆる「早生まれ」になり、同じ学年になる子どものなかでも発達的に遅いグループに入る。それにプラスして語学のハンデがあるので、少しづつ慣らしていったほうがいいと考えたのである。

とはいえ、いきなり知らない外国語を話す人だらけの環境に入れられると、意思疎通ができず、海で溺れてしまうような辛い思いをする子どもがいると本で読んだので、親としては相当心配だった。そこでバイリンガルの本を読んだり、ちょっとでも英語に親しみを覚えるようにと英語の絵本を図書館で借りてきたり、アメリカ人の友達に合わせてみたり…色々やったのだが、ことごとくドラえもんに負けるし…。

もうこれは、エイヤ!で保育園に通わせたほうが良いだろうと夫とも合意して、毎日20分のドライブで保育園に通うことになった。

クラスでひとりぼっちで寂しくなるんじゃないか…登園を拒否することがあっても受け入れよう…当初、そんな心配をしては胃をキリキリさせていたのだが…それはあっけなく杞憂に終わった。

現在、娘は毎日、紫色のユニコーンのリュックを背負って楽しそうに通園している。違う言語を喋る人しかいない空間に、意気揚々と進んで行くその姿を見送る度、その適応能力の高さにただただ、驚かされる。

担任の先生曰く、クラスの先生や子供達が英語で話しかけようが、娘は常に日本語で返答しているらしい。でも相手の言っている事はなんとなく理解するらしく、子ども同士意思疎通はできて、楽しく一緒に遊んでいるとのこと。むしろ自分から周りに日本語で話しかけまくっているらしく、何言ってるのかわかりたいんだけれど、わからなくてごめんね!と先生が話しかけている姿を見たこともあった。

帰りのドライブ中に、今日は何をした!誰と話した!お弁当残した!と逐次報告しては、「じゃあ、コアラのマーチね!」と日本食スーパーで買った高級お菓子を催促してくる娘のバイタリティがとても眩しい。

そうこうしているうちに、日本語を話し続ける娘も少しづつ、この環境を受け入れ始めたようで。

先日公園で、娘の放ったボールをキャッチした私に向かって

「ママー、グッジョーブ!」

と親指を上げてきた。

…いきなり、英語!?!?

私はグッジョブなんて言う柄でもないし、娘の英語は「保育園の先生にご挨拶は?ほらほら!」と促してようやく、私の言う「ハーイ」「バーイ」を小さな声で復唱するくらいのレベルなのに。

まさかの、大声で「グッジョブ」発言。(しかもサムズアップ付き)

でもその姿も使い方もとてもナチュラルで。
ああ、この子は保育園でこうやって先生や周りのみんなに「Good Job!」って、親指立てて言われ続けているんだな、と思った。

「Hi!」より、「Bye!」より、この小さな体に染み込んだ言葉は「Good Job!」だったんだ。そう思った瞬間、なんだかすごく温かいものが胸に流れ込んできた。嬉しかった気持ちが血潮に染み込んで、娘を成長させて、その気持ちが私の方まで飛んで来たような。

その日の夕焼けは、格段に綺麗に見えた。


コロナ禍、ヘイト問題も大きくなり、色々ごちゃごちゃしているアメリカ。それでも私は、今、目の前にいる温かな人々に感謝しているし、この寛容性を、心底信じたいと思っている。

言葉が通じない環境でも日々を一生懸命楽しんでいる娘と、彼女を仲間と思い、一緒に遊んでくれるお友達。毎回娘を迎えに行く度に、私に向かって「She is Great!」と笑顔で話しかけてくれる優しい先生たち。

彼らが守られるためにも、文化や肌の色、言語や性差、経済状況などによる差別や格差が本当の意味で是正され、この美しい心の持ち主たちが、傷つき前途を閉ざされることなく、本当の意味でオープンに、伸びやかに生きられる社会になってほしい。それはアメリカに限られたことではなく、この世界中のどこにいてもそうだ。どうか明日も、世界中の優しく、柔らかな人たちが守られますように。そう願いながら夜を迎えている。




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