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のら猫たちの戦い 中編【エッセイ】

前編からの続きです。

我が家と家族同然になっていた3匹の猫、〈お母さん〉〈へんはち〉〈まけ〉の一家は、辺り一帯を縄張りにするメス猫〈ふぁんとむ〉に目を付けられるようになってしまいました。

〈ふぁんとむ〉は腕っぷしが強く、今まで数多の猫を追い出している、町内のディフェンディングチャンピオン。しかも手が早い。よそものを見つけるやいなや、ケンカを吹っ掛けていきます。
悪い予感は当たってしまいました。ついに近所で子どものほうの2匹〈へんはち〉と〈まけ〉が、〈ふぁんとむ〉に追い立てられる姿を目撃するようになってしまいます。
子ども2匹にとっては青天の霹靂だったでしょうね。にゃあと生まれてから今まで、この町内で平和に暮らしていたわけです。なんか凄みのあるオバサン猫はいるけど、いじめられるわけでもないし、エサや水をくれるお家はたくさんあるし、何だか冴えない顔をした人間のおじさんはおもちゃで遊んでくれるし。
〈ふぁんとむ〉のことも、関係はよく分からないけど親戚くらいに感じていたかもしれません(おそらく実際に血縁はあると思います)。それがいきなり襲いかかられるようになってしまった。

よその猫だったら、ケンカに負けたら尻尾をまいて逃げればいいでしょう。元いたところに戻るなり、また別に町へ足を向ければいい。
でもこの一家、特に子どもたちは、この町内が自分の縄張りシマだと当然思っている。いわば実家です。簡単に出ていくわけにはいかないし、そのつもりもない。しかも居心地だって抜群にいい。
(まあ裏を返せば、〈ふぁんとむ〉が一家以外のよそ猫を片っ端から追い払っていたので、この平和があったとも言えるのですが)

へたれのオス猫〈へんはち〉は、〈ふぁんとむ〉の姿を見かけると、あるいは気配を感じただけで一目散に逃げるようになりました。うん、君はそれでいいよ。ねずみ取りに引っかかるほど運動神経がめちゃくちゃ悪いからね。
〈まけ〉はメス猫同士のプライドがあるのか、正面から立ち向かっていきます。でもやはり太刀打ちできません。2、3発のパンチをもろに食らってしまい、尻尾を膨らませて退散していきます。
残るは〈お母さん〉ですが、これも期待できません。何故なら〈お母さん〉はとても小柄な猫なのです。もう子ども2匹のほうが体格がいいくらいです。結果は目に見えていました。

〈ふぁんとむ〉は昔からの馴染みです。ご近所さんという意識があります。憎からず思っていたのですが、こうなってくると話が違ってきます。私も妻も当然、猫の一家の味方とならざるを得ません。
古代ギリシアの叙事詩で『イリアス』という有名な物語があります。オリュンポスの神々のちょっとした諍いから、人間界でのトロイア戦争が起こるわけですが、アカイア軍(ギリシア勢)とトロイア軍には、それぞれの勢力に肩入れする神々がしれっとバックについています。
つまり私たちも、猫の一家の後ろ盾となって、〈ふぁんとむ〉に攻撃を仕掛けるようになりました。
攻撃といっても、家の敷地で見かけたら「こら!」と怒鳴ったり、手で水をすくってかけてみたり、何か物を投げる真似をして追い払おうとしたりと、その程度なんですが。
共に同じ町内で生活しているご近所さんなのです。それ以上のことは気持ち的にできません。

今度は〈ふぁんとむ〉が驚く番だったでしょうね。今までまったくの無害だった人間たちから、嫌がらせを受けるようになってしまったのですから。理解できなかったと思います。水を引っかけた時の「え? 何で?」という顔に胸を締め付けられる思いでした。
私たちだって、できるならこんなことはしたくありません。〈ふぁんとむ〉も含めて、みんな仲良く見守ってあげたい。
でも〈ふぁんとむ〉を追い出さないと、このままでは我が家の3匹がどこかに行ってしまう。私と妻にとって、それはもはや耐えがたいことです。
せめて〈ふぁんとむ〉が我が家の近くには寄りつかないようになってくれればいいのに、と願っていました。うまく棲み分けをしてくれないだろうかと。でもそれは人間の甘い考えなのですね。人間がどうあがいても、猫の世界のことは、猫同士で決着をつけないと話が進まないのです。
運命のいたずらなのでしょうか。私と妻は偶然にも、家の裏で対峙する〈ふぁんとむ〉と〈お母さん〉の姿を目の当たりにしてしまいます。

2匹はまんじりともせず、にらみ合ったまま、かわるがわる唸り声を上げていました。猫のケンカというのは、どちらかが最初の1発を入れるまで、ずっと張り詰めた唸りあいが続きます。ここで相手方がビビって勝負を降りてくれれればそれが一番だからです。例え小さな怪我であっても、化膿して命取りになるかもしれませんし、手負いと見られれば他の猫に襲われる可能性も増えます。実力行使することなく事が済めば、それに越したことはありません。
しかし〈お母さん〉も〈ふぁんとむ〉も引く様子は微塵もありませんでした。
こうして向かい合ってみると〈お母さん〉は本当に小さいです。〈ふぁんとむ〉より二回りは小さい。この2匹のほうが親子なんじゃないかと思うくらいです。そんな小さな体で、家族の居場所を何とか守ろうとしているのです。
〈ふぁんとむ〉には余裕が見られました。唸りながらジリジリと距離を詰めていきます。一歩、また一歩と。まさに横綱相撲、王者の風格です。

私は選択をすることができました。今すぐ割ってはいってこのケンカ、いや決闘を止めるのです。わがままなギリシアの神々のように。そうすれば今日、一家がいなくなることは避けられるでしょう。根本的な解決にはならないけど、悲劇を一旦は回避することができます。猫よりずっと大きな人間である私にはたやすいことです。
しかし私は動くことも、声をあげることさえ、できませんでした。それは今思い出しても不思議な感覚です。
生き物が自分のプライドをかけて、いや全身全霊をかけて戦いに挑む姿に、私も妻も圧倒されていたのです。
例え姿がどんなに小さく弱々しかったとしても、そのことが気高さを計るはかりにはなり得ません。
おそれ。畏怖の気持ち。ちょっと大袈裟ですが、それがあの時、私を押しとどめたものの正体だったのだろうと思います。

2匹は飛びかかればすぐに相手に牙を立てられるほどの距離まで近づいていました。私は〈お母さん〉がうまく〈ふぁんとむ〉の先制攻撃を避けられるように祈っていました。うまく逃げてくれ。また家に来て、おもちゃで遊んだり、おやつを食べてくれ。ホットカーペットの上で好きなだけごろごろしてくれ。

裂くような叫び声が響きます。2匹の猫はもんどりうって転がり、玉のようにひとつの塊になっていました。
私は見ました。先に飛びかかっていったのは間違いない、〈お母さん〉のほうでした。〈お母さん〉の爪が〈ふぁんとむ〉の鼻先を3回も引っ掻いたのです。ひるんだ〈ふぁんとむ〉でしたが、何とか1発だけ反撃をし、その後は取っ組み合いになりました。
しばらくのつかみ合いの後、〈お母さん〉は素早く相手を振りほどき、また鼻先を爪で繰り返し襲います。私と妻は唖然としてその様子を眺めていました。〈ふぁんとむ〉が戸惑っているのも分かりました。まったく予想していなかった展開です。
今まで直接対決していなかったので、分からなかったのです。
〈お母さん〉は〈ふぁんとむ〉と同じくらい、いやもしかするとそれ以上にケンカの強い、ヤンキーママさんだったのです。

「こら!このクソババア! ふざけんじゃねえぞ!」

つづく


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