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ことばの夢をみる夜【エッセイ】

なんだか重いエッセイを書いてしまったので、軽い話を書こうと思ったんです。
軽い話の鉄板ネタといえば、猫。
「よし、さらさらっと仕上げよう」と思って書き始めた話が、前中後篇にわたってしまった*1。

書いている途中で、「あ、これは簡単には終わらんな」と気がつくんですが、後の祭りです。
ナラティブ(広義のもの語り)は放物線の形をしていますから、いきなりストンとは落とせません。もの語り的な慣性に従います。まあ無理矢理に撃ち落とすこともできますけど、それって無意味です。
原稿用紙3、4枚ほど進んだところで、投げたボールの角度が分かります。勢いの具合も感じます。これはまだまだ飛んでいっちゃいますねと腹をくくります。ナイスショット、自分。
そうして奥さんの冷ややかな視線を受けながら、長々とnoteに向かうわけです。

しかし不思議ですよね。こうなると何だか目的と結果が逆のようです。
私がもの語りを書いているというより、もの語りがあるから私が掘り起こしているという意識です。まさに漱石の『夢十夜』の運慶のくだりですね。
お腹の中でガソリンが揺れているので、使い切ってしまわないとなんだかすっきりしない。

海外旅行にいくと、すべての風景が非日常なので印象的ですよね。しばらくの間は、眠るとその時の記憶が断片的にピックアップされ、つなぎ合わされて、不可思議な夢が醸成されます。
ナラティブ、すなわちエッセイでも小説でも形態は問わず、〈もの語り〉は旅と同じ作用があると感じます。頭の中の旅、精神の旅、心の旅ですね。
そうして眠ると〈ことば〉の夢のようなものを見ます。ふだんの夢は映像が浮かんでくるわけですが、〈ことば〉の夢は、ただ〈ことば〉だけが浮かんできます。活字ですらなくて純粋に〈ことば〉だけですね。

〈ことば〉の夢はたぶん、本当は誰しもが見ている夢だと思うんですが、がないから、夢と思われてないんじゃないでしょうか。ただうなされているだけだと感じているとか。ちょっともったいないですね。

音楽家だったら、音楽の夢を見ているのではないかと思います。ポール・マッカートニーは、名曲『イエスタデイ』を眠っている間につくったと言われます。朝、起きたらできていたそうです。彼の特殊な天才性を現すエピソードとしてよく語られますが、夢と創作は記憶の再構築という意味においてニアリーイコールなので、わりと素直に受け入れていいことなのかもしれません。

〈ことば〉の夢を見て起きると、まだ頭の中に〈ことば〉がぐるぐる回っているのを感じます。洗濯機を一時停止してふたを開けたみたいな感じです。〈ことば〉が絡まり合ったまま、放られて回っている。ちょっと酔った感じがします。
この酩酊のあいだは、比較的いい表現が思いつくような気がします。
五分もして素面しらふになるともうダメですね。
自分より夢のほうが優秀な表現者です。


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*1 我が町内でおこった、のら猫たちの戦いです。


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