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のら猫たちの戦い 後篇【エッセイ】

中編からの続きです。

決闘に決着はつきませんでした。
途中で2匹とも私たちの存在に気がつき、逃げていってしまったのです。

〈お母さん〉の実力が判明したことで、一家と〈ふぁんとむ〉は微妙なバランスの関係になっていきます。

〈お母さん〉と〈ふぁんとむ〉は、お互いを避けて鉢合わせしないように気をつけているようでした。もしまたケンカになってしまったら、実力が拮抗している2匹は、どちらも無事では済まないでしょう。
おのずと〈ふぁんとむ〉のターゲットは子どもの〈へんはち〉と〈まけ〉に絞られていきます。
子どもの2匹を追い払うことができれば、〈お母さん〉も子どもにつられて移動していくかもしれません。〈ふぁんとむ〉にとってはここが狙い目です。弱いところから崩そうと目論みます。

〈お母さん〉側も防衛策を考えます。
一家は以前にも増して、そろって一緒にいることが多くなりました。流石の〈ふぁんとむ〉も3対1では手出しができません。路地裏で3匹がこれ見よがしにくつろいでいても、にらんでプレッシャーをかけるのが精一杯です。
〈ふぁんとむ〉は、〈へんはち〉や〈まけ〉が単独行動をしている時をうかがいます。隠れて待ち伏せをし、襲いかかるのです。しかし2匹はすぐに身をひるがえして逃げていきます。子どもたちは女親分との真っ向勝負は避けているようです。正面切ったケンカさえしなければ、そうそう手傷を負うことはありません。〈ふぁんとむ〉のゲリラ戦法は嫌がらせ程度の効果しかありませんでした。

こうして猫の一家と女親分〈ふぁんとむ〉との縄張りあらそいは、膠着状態となりました。数ヶ月はこんな状態だったと思います。
変化があったのは春になり、猫たちに発情期が訪れた時でした。


発情期になると、どこからともなくオス猫たちがロマンスを求めてこの町内にやってきます。彼らは数日間あたりをウロウロした後は、居着くことなくまた出ていきます。さすらいの旅人です。
女親分〈ふぁんとむ〉も、この時期はふだんの侠客めいた物腰から一転、クラブのママさんばりにオス猫にすり寄っていくのです。その変わり身たるや見事です。
毎年観察していると分かるのですが、〈ふぁんとむ〉の好みは、とにかくワイルドなオス。一目で「ああ、これはどこかのボス猫だな」と知れるような、強そうなお相手に近寄っていきます。
その年やってきたのは、なんと片目の潰れた傷痕だらけのオス猫でした。少年漫画に出てきそうなキャラの立った奴です。こんな猫、本当にいるんですねぇ。名前は〈まさむね〉。一瞬で決めました。
どうでもいい余談ですが、片目のオス猫につけるなら〈まさむね〉か、〈かこうとん〉しかありませんよね。私の奥さんは三国志に詳しくないので(世の中の多くの女性がそうだとは思いますが)、〈まさむね〉にしました。
ヨーロッパにはそういう有名な片目の武将っているんですかね。寡聞にして知らないのですが、もしいるなら名前の候補としてストックしておきたいです。

さて、私が近所を散歩していると、路地裏でごろごろ寝転んでいる一家に出くわしました。全員が一緒にいる時は安心です。みんなリラックスして体をなめ合ったりしています。
外で会う時の3匹は、ちょっとよそよそしくて、私が近寄っていくといい顔をしません。そういうのって、のら猫としての体裁なんでしょうか。外では距離を取ってもらわないとねえ、こっちも一応のら猫としてやっていってるんで、しめし・・・がつきませんよ、みたいな。なので、私は少し離れたところから見守っていました。
するとふいに〈ふぁんとむ〉が塀の上に現れました。いつものように3匹を厳しくにらみ付けるかと思いきや、何だかそんな感じではありません。どことなく余裕のある顔つきをしています。一家も〈ふぁんとむ〉の姿を見ても動じるはことなく、ゆっくりと毛づくろいを続けていました。
〈ふぁんとむ〉の後ろから、大きな影が歩いてくるのに気がつきます。〈ふぁんとむ〉より更に二回りも、三回りも大きいその姿。
〈まさむね〉です。
なんと情婦である〈ふぁんとむ〉の助っ人として、この強面のオス猫が現れたのです。「おう、あいつらか。お前の縄張りシマでちょろちょろしとんのは」もうそんな感じ。
私はこの光景を見てひっくり返ってしまいました。猫ってそんな立ち回りもするのですね。もう峰不二子みたいじゃないですか。驚きです。一筋縄ではいかない猫社会の愛憎を垣間見てしまいました。

〈まさむね〉は片目で地上の一家を見下ろしています。何というか、その巨体のせいもあって人間の私でさえプレッシャーを感じてしまうほどの迫力です。一家は〈まさむね〉に気がつくやいなや、弾かれたように飛び上がりました。まさに戦々恐々。何をされたというわけでもないのに、一瞬でパニックです。〈お母さん〉も〈へんはち〉も〈まけ〉も、腹ばいのような低い姿勢になって、散り散りに逃げていってしまいました。
〈ふぁんとむ〉はすました顔でその様子を見ていました。「ふふん、いい気味ね」と。ふだん苦々しい思いをしていた分、すっとしたんでしょう。それもまた少女漫画の敵役そのまんまで、私は開いた口が塞がりませんでした。

〈まさむね〉は数日もするといなくなってしまったのですが、この一件で嫌気が差したのか、〈お母さん〉が他の町内へ出かけていくことが増えました。そして気がついた時にはほとんど帰ってこなくなっていました。どうも出かけた先の繁華街で、むかし出ていったメスの子猫に出会ったらしく、そっちで母娘おやこでエサをもらって暮らしているようでした。昼ドラのような展開です。
そうなると、〈へんはち〉〈まけ〉だけでは〈ふぁんとむ〉に太刀打ちできません。しだいに家にやってくる回数が減っているように感じていましたが、ある日を境に〈へんはち〉がぱたりと来なくなりました。
しばらくは〈まけ〉が一人でやってきていました。我が家で〈へんはち〉が帰ってくるのを待っているようでした。毎日毎日、決まった時間にやってくるのです。しかし〈まけ〉もまた糸が切れたようにふっといなくなってしまいました。
猫たちが使っていたおもちゃや爪とぎ、クッションだけが部屋に残されました。私も奥さんも寂しさでいっぱいでしたが、のら猫の世界のことは人間にはどうにもできません。

残ったのは〈ふぁんとむ〉だけになりました。
私も奥さんもしばらくは〈ふぁんとむ〉を敵視していましたが、猫を恨んでも仕方ありません。それにもうずいぶん長い付き合いでもあります。
私たちは〈ふぁんとむ〉を許し、家の敷地に入ってきても追い払うことはなくなりました。


しばらく経ったある夜のこと。

窓の外から叫び声が聞こえてきました。普通の人の声ではありませんでした。背筋が冷たくなるような金切り声です。大袈裟ではなく「近所で殺人事件が起こったかもしれない」と立ち上がって窓を開けました。
叫び声は何度も繰り返されます。そのうちこれは人の声ではなく、猫の声かもしれないと思い直しました。しかし猫にしては、あまりにも大きく、鬼気迫るものがあります。とにかく得体がしれません。私は靴を履き、声のする方に向けて歩きだしました。

二軒隣りの小路に、声の主がいました。暗がりでよく見えませんがやはり猫のようでした。2匹の猫が対峙しているのです。
目が慣れてくると、手前にいるのが〈ふぁんとむ〉だということが分かりました。毛を逆立てて尻尾を膨らませています。私は違和感を感じました。〈ふぁんとむ〉のポーズが、ケンカにおいて劣勢の側の猫がとる姿勢だったからです。
奥にはもう1匹の猫がいます。鬼気迫る叫び声は、この相手の猫から発せられているのです。この猫は〈ふぁんとむ〉を心の底から憎んでケンカを仕掛けている、そう感じました。体の柄は〈ふぁんとむ〉と同じ三毛でした。
〈まけ〉です。

成長し体も大きくなった〈まけ〉が、〈ふぁんとむ〉に復讐の戦いを挑んでいるのです。優勢なのは、あきらかに〈まけ〉のほうでした。〈ふぁんとむ〉は〈まけ〉のとてつもない気迫に押されて、小さくなっています。おののいて手が出せないといった感じです。
私ははっと気がつきました。すみかを追われ、家族をばらばらにされた恨みを、〈まけ〉がいま晴らそうとしているのです。
しかし突然のことで頭が回りませんでした。久しぶりにその姿を見た私は、つい反射的に「まけ!」と声を発してしまったのです。
〈まけ〉は私の声に反応して振り向きました。気を取られたわずかな隙をついて〈ふぁんとむ〉は横に飛び出し、そのまま塀に飛び乗りました。それに気がついた〈まけ〉が〈ふぁんとむ〉の背中を追って駆け出します。2匹はあっという間に暗闇に消えてしまいました。

もう2匹の声は聞こえてきません。きっと〈ふぁんとむ〉はうまく逃げおおせたのでしょう。
一人路上に取り残された私は、申し訳なさでいっぱいでした。〈まけ〉は〈ふぁんとむ〉を追い詰めていました。しかし私のうかつな行動のせいで〈まけ〉は復讐を果たせなかったのです。
もしあの時〈まけ〉が勝っていても、一家との日々がまた戻ってくることはないと思います。でもいくら過失とはいえ、〈まけ〉が全身全霊をかけた戦いの邪魔をしてはいけなかったのです。あの時の自分の失態を心から悔やんでいます。

結局、〈まけ〉も〈へんはち〉も〈お母さん〉も、いまだにこの近所には戻ってきていません。でもどうやら近くで暮らしてはいるようです。散歩に出たときに何度か見かけたことがあります。私たちに気がつくと、にゃあと挨拶をしてくれます。でもやっぱりもう我が家に帰ってくることはないようです。

猫との暮らしを忘れられなかった私と奥さんは、今は家で猫を飼っています。〈まけ〉と〈へんはち〉が忘れられず、オスメス2匹のきょうだい猫をもらってきました*1。


〈ふぁんとむ〉は年を取ってはきましたけど、まだまだディフェンディングチャンピオンです。最近は我が家の自転車置き場に入り浸りです。日なたぼっこがお気に入りのようです

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*1 我が家の飼い猫〈グリ〉と〈ヨッホ〉の話はこちら。


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