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書くのがなんだか苦しかった話【エッセイ】

ここ数日エッセイを書くのが苦しかった。
執筆の時間を夜に変更したことで、体力的にきつくなっているというのもあるけど、単純に文章を書くのが辛かった。

書きたい気が起こらないというわけじゃなくて、そこそこ前のめりになってキーボードの前に陣取るのだけど、かんばしくない。
文章を考えようとすると、こめかみの辺りがなんだか痛い。
伝わるかどうか分からない例えですけど、脳みそに乳酸菌が溜まっている感じでした。筋肉痛の時のあれです。
重くて鈍い。走り込みの後、太ももがパンパンに張っている感じみたいに、大脳がパンパンに張っている感覚です。(分かりませんよね。すみません)
ともかく、僕は困っていました。

毎日同じ事を繰り返していると、人間まあ飽きるじゃないですか。
僕はこの毎日のエッセイ執筆を90日連続くらいは続けたいと、勝手に決意しているので(バッジも貰えますしね)、こんなに早く飽きちゃったら、この後2ヶ月くらい相当辛いぞと、暗い気持ちになっていんです。
まあ、嫌なら止めちゃえばいいんですが、どうしても創作に関係することには意固地になってしまう小さい人間なので、そう簡単には引き下がりたくない。

エッセイのお題は、キーボードに向かってから10分くらい「今日は何を書きたいかなぁ」と頭の中をまさぐって決めています。
自分の中の風向きを探るような感覚です。
昼間のうちに「あ、これを書こう」と思いつくことも多々あるのですが、仕事を終えて気力体力が減っていると、書きたいものが変わっていることがほとんどです。
(精神は肉体の奴隷であると言ったのはニーチェでしたっけ?)

10分経ってもお題が決まらないようになったのが、3日前。
色々とまさぐった結果、その日は写真集の話を書きました。
2日前は、記憶の断片の話。
思い出話は好きでよく書くのですが、この日はエピソードになっていない、本当に断片的な話。記憶というより感覚のスケッチ。エピソードを書こうとすると、ある程度長い文章になってしまうので、手を出すことを無意識に避けていたのだと思います。
昨日は、ついに書きたいものがまったく見つからず、30分以上うんうんと唸った末に出てきたのが、散文詩/自由律俳句。おお、まさかこんなものが出てくるとは。自分でも驚きました。
一行目を書き始めたときは、自由律俳句(季語が無いものもあって川柳に近いですが)を書こうなんてこれっぽっちも思っていなかったのですが、自然と手がそっちに向かっていったんですよね。
結果的にこれが良かったみたいで、頭の中の栓がポンと抜けて、今日は晴れて普通に文章が書けるようになった次第です。

僕はこうやってたまに脳みそに乳酸菌が溜まって(この例えで本当にいいのか?)、文章を書く気が起こらなくなることがあります。
今までは自分の文才の無さや、努力の足り無さのせいだと思っていたのですが、今回はちょっとした気づきがあり、ひとつの仮説を考えてみました。


話が脇道から入ってしまい申し訳ないのですが、僕は先日、東洋哲学の入門書を読了しました。
『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』飲茶著(河出書房新社)
(この本、かなり分かりやすくて面白いのでオススメです)

この中で、東洋哲学では「知る」=「知識を得る」ことではなく、本当に知るためには、体験を通して知らなければならないという解説が出てきます。

例えば、あなたが道の真ん中でとぐろを巻く蛇を見つけて、怖くなって逃げたとします。その後、他の人が同じ道を通ったところ、あなたが蛇だと思ったものは実はただのロープだったことが分かりました。
これであなたは、知識の上ではすでに蛇がいないことを知っているはずです。ですが、その道を通ることが何だか怖くて、躊躇してしまう。
これでは果たして、あなたは蛇がいないということを知っていると言えるのでしょうか?

こんな感じの話です。
蛇がいないことを本当に・・・知るためには、あなたはもう一度その道を歩いて(実際に歩かなかったとしても、腹の底から納得して)、蛇がいないことを体で分からないといけない。
この訓話は、僕の解釈ではこうも言い換えられると思います。

世界を認識する術には、「言葉による認識」と、「言葉によらない認識」がある。

そして創作者の視点を加えると、さらにこう変換ができます。

自分の思考や感覚を言葉によって切り分けて表す方法と、言葉を用いずに丸のまま表す方法がある

前者は小説、後者は絵画や写真がその代表でしょう。
毎日エッセイを書き続けていくうえで、僕は自分の思考や感覚を、言葉というナイフでみじん切りにしてきました。おそらく気負って必要以上に刃を振るっていた。
もし僕が本当に文章の達人であったなら、言葉を用いながら言葉以外の部分が持つ感覚を、自分の内側からするりと出せていたはずなのです。
それこそが言葉による表現の悦びだと思います。

僕の浅いレベルでは、言葉を使っても使っても、表したかったことの一部しか切り取れない。逆に切るほど、余りが増えていく。だから吐き出せなかった感覚がおりのように残ってしまう。
それが積み重なって、文章をつむぎ出すエンジンの回転数が少なくなっていき、やがて停止した。
だから僕は好きな写真を紹介したり、とりとめのない感覚そのものを記述したり、詩歌に近づいたりして、溜まっていた澱を流そうとした。
(詩歌は一見言葉による切り取りのようですが、字義以外の意味を表している、むしろ字義以外の部分がメインという点で、言葉と言葉以外の中間にある表現だと思います)

つまり、人間は言葉によって世界を捉えることと、言葉によらずに世界を捉えることの両方でもって、陰陽のバランスを取っているというのが、僕のざっくりした仮説ですかね。

とりあえず、昨日詩歌を書いたことで、頭から洗面器でお湯をかぶったみたいに、すごくすっきりしました。
自分が昔から小説と映像の両方に携わっている理由も、この仮説で一応説明がつくのかもしれません。
仕事に疲れると風景がみたくなるのも同じようなことなのでしょうか。海や山を眺めている時は何も言葉にしませんものね。


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