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本棚が本で埋まるわけ【エッセイ】

本棚が完成しました。
自分で組み立てるタイプの本棚だったのですが、1ヶ月放置してやっと今日、組み立てました。

組み立てるのに要した時間は20分。
この20分に取りかかるやる気を溜めるのに1ヶ月かかったのだと思うと、自分の無精さに笑うしかないですね。
(連日の猛暑のなか、書庫にはエアコンがないので、入るのをためらっていたという別の理由もありますけど)

これでやっと蔵書を回収できます。
部屋の模様替えをするために、ぼくは蔵書を段ボール詰めにして実家に送りつけていたのです。
今年の初めに発送しているので、ここまでくるのに8カ月かかりました。
やっと紙の本が手元に戻ってくると思うと、何だか安心します。
だけど本を収めるスペースが以前より少なくなっているので、1箱分くらいは売ってしまわないとかなぁと思っています。

本を売る時って、真剣に考えれば考えるほど売ることができないと思うので、冷酷なようですが「3年以上積んだまま手を付けていない」とか、明確な基準を決めて売るしかないでしょうね。ちょっと気が重いです。

本に対するこの感覚って何なんだろう。そう思います。

ぼくの友人に服が好きな女性がいるんですが、彼女は高校生の頃から30才を越えるくらいまで、購入した服をすべてクローゼットに入れて保管していたそうです。1枚も捨ててこなかった。
でも、実家から出て一人暮らしをするにあたって、どうしてもスペースの都合で処分してしまった。
彼女はいま売れっ子のイラストレーターなのですが、当時はまだ駆け出しだったのでそんなに高い家賃の家には住めなかったのです。
でも処分して、ものすごーく後悔したそうです。
服は自分の歴史だったのに、私はそれを手放した。あんなことするべきじゃなかった、と断言していました。
それ以降は死ぬまで絶対に服を売らないために、服をしまえる広さの家を借りる、そのために稼ぐ、と決めたそうです。

彼女の服に対する執着はちょっと凄すぎだと思いますけど、でも彼女の口にした「服は自分の歴史だった」という言葉。それはぼくの本に対する感覚に近いと思います。

本にはしおりを挟みますけど、本それ自体が自分の過去を留め置く栞のような気がします。

ぼくらは肉体を持っているのは自明のことですが、その自明な肉体ですら、鏡を使わないと確認できません。いわんや、形のない自分の内面を見る術なんてありません。
でも本棚に並んだ本には、それらを求めた時の自分の〈魂〉が、挟まれているのだと思います。ほんのちょっぴりだとしても。

本棚がなかったこの8カ月間。ぼくは自分が何者であるかのあかしを立てられなかったような気がします。
それは他人に対してではなく、自分自身に対して証を立てられなかったということです。
もしこのまま蔵書がまるごと消えてしまったら、ぼくが「自分はこういう人間なんだ」と思っていたことは、証明されることなく失われてしまうでしょう。そんな人間はいなかった、そういうことになります。

まあ仮にそうなったって死ぬわけじゃありません。風邪すら引きません。
しかしある種の喪失は、何をもってしても埋めることができません。
喪失を抱えて生きることは苦しいことです。

喪失の苦しみを忘れるために、ぼくには本が必要です。
だからまた、本棚は本で埋め尽くされるでしょう。





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