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本質病外来【エッセイ】

うっかり気を抜いていると、すぐに物事の本質を突こうとしてしまう。
こういうの男性に多い気がする。

ビジネスの本質、自分の好きな漫画やアニメの本質、現代社会の本質、男と女の本質、戦争の本質、小説の本質、人間という存在の本質云々。

主語の大きなものを、ズバッと一言で切り伏せる。
この指一本で秘孔を突いて、世の中という巨象に血の泡を吹かせる。
そういう衒学的マッチョイズムに、ついつい手を出してしまう。
そして酒を飲んだりしながら一席ぶってしまう。

本質病に掛かったさもしい人間達は、ことあるごとに黄色い牙を剥き、世の中に爪痕を残そう、爪痕を残そうと今日も荒れ野を彷徨っている。

そんな本質病罹患者である私にとって、衝撃的な事件があった。
今を去ること7年前、妻と出会ったばかりの頃のこと。

妻は刺繍作家である。
私は小説を書いているし、その頃は商業映像のディレクターをして収入を得たりしていたので、何とはなしに会話がクリエイター談義へと流れていく。

私はクリエイターというものはみな、大なり小なり自分の作品で世界を変えるという野心をもって手を動かすものだと思っていた。信念ですらあった。
当然、妻もそういった気概を背負った臥竜の一人だとして疑わなかった。Hey you! 俺達で世界を変えようぜ!
しかし妻はあっけらかんと言った。

「刺繍で世界は変わらへん。そんなん無理やろ」

お、、、、、おう、、、、

「ハンカチにお花刺しても、可愛いだけやで」

まあそれはそうなのかも知れないけど、志っていうか、本質は何か?みたいなことってあるじゃん?

「無いなあ。可愛いもの作れるかどうかが大事やから」

妻は刺繍作家として、一切の甘えなく生計を立てている人だ。
まごうこと無きプロの作家である。
私のようなゾンビクリエイターとは違う。

刺繍で世界は変わらない。

それは真理だと思った。変えようがない。
ハンカチにお花を刺しても、そこにあるのは小さな可愛いらしさだけ。
世の中の本質がどうこうという話とはかけ離れている。
社会全体に一石を投じるのではなく、刺繍を楽しむただ一人一人の心を動かす。ただそれだけだ。
私は唸ってしまった。

──本質を突こうとやっきになるのではなく、ただより良い作品を作り続ける。
──むしろこれが物づくりの本質なのか?

私の脳内出力は脳内入力に繋がれてしまい、再帰的なサーキットはパルスの暴走を止めることができなくなった。

焼け付いたアタマが落ち着いてくると同時に、私は蒙を啓かれていた。
依然として、本質病の症状は収まってはいないものの、そんな自分をからかう視点ができた。
醒めたといえば、醒めたのかもしれない。
老いたということなのかもしれない。
こうしてまた、胸に抱いていた信念と情熱を手放したのか。

否。

私は自分自身の本質に一歩近づいただけなのである。




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