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本をよくという事は

偶にほんの偶にだけど、家事もツナ君の目薬も何もかも忘れて好きなだけ本を読んでいたい日が在る。

この本を読みたいと言う気持ちは、解る人には解るが、解らない人日はさっぱり分からないらしい。

『あんた自分の好きな時間に、好きなだけ読んだらええやん、自由なんやろ。』何処からか声が聞こえてきそうだ。

ホンマやな、読んだらええんよ。

別に読んだらイカンと言われているわけでは無い、なのに昨今は少しづつしか本が読めない。

我が父は老眼になってめっきり本を読む量が減ったと言っていて、確かに自分の眼の問題も一因だが、どうもそうでは無い。

子供の頃は母親に本を読む事を制限された、本なんて読むのなら勉強しろと言う訳だ。

母の頭の中は読書=勉強には成らなかったみたいだ。

「そんな物読んどんのやったら、勉強しなあかん、立派な大人になれへんで。」と言われたので、今は立派に立派でない大人に成っている。

結婚した時にも夫は本を読まない人間だった。

私が本を読みたいと言うと、「高い金出してそんなもん読むの、どうせ嘘書いてあるんやろ。」と断じた。

確かに、物語の世界は偽物で嘘だと言われたら嘘だ。

だけど、その世界は誰かの頭の中に有って、誰かの頭の中を私たちは覗いている。

手術で切開しても頭脳の中は見れないが、それを文字にすることによって、私達は他人の思考を覗ける。

子供の時に何でもいいから本が読みたかったのは、無口な私が大っぴらに会話して、誰かの頭を覗くのは、本との対話だけだったのかもしれない。

結婚した時に、夫に話したことがある。

「本は無駄みたいに見えるけど、私には親よりも親密な物なんよ、だから買ってもいい??」

「沢山は買わんけど、私は化粧はしないから、普通の人が化粧で月々払っているお金を本に回したい。」

よくよく考えれば、その位は夫の許可を貰わなくても、買えば良かったんだろうけど、下の子が保育園に入る迄は私は働いて居なかったので、お金を使う事に引け目があった。

新しい服を着ていると、それ新しく買ってきたん??と嫌な顔をされたりしてね。

図書館に行くのが一番良かったんだろうけど、子供4人は連れて行けないし、年が違うから予定が違う。

毎週末に学校や保育園の予定が入ったりすると、図書館どころでは無い、予定で一杯になるのだ。

それでも、そんな状況下でも本は読んでいたと思う、人間壁があった方が頑張る物なのかもしれない。

今ここに、図書館の様な本の壁があって、時間も気にせずに好きなだけ読みなさいと言われたら、どうするだろう??

恐る恐る本を手に取って、ゆっくり読み始めて、最後まで読み終わるのには時間が掛かるかもしれない。

何故なんだろう???

昔は沢山読みたい、あれもこれもと手を付けて、何でも読んでいた、今ほど考えていなかったのかも知れない。

それが今はどうだ、ゆっくりゆっくりしか読んでいない、カタツムリ位の速度だ。

昔、安倍公房氏と渡辺格氏の対談をNHKで見たことがある、その時に安倍公房氏が分子生物学の研究に怖さを感じると話していた。

この中で、安倍公房氏が人間の中に有る弱者と強者が対になって勝ち取っていく能力があった、それは地球的にバランスを取るという事だと言う。

その他にも、例えば脳を入れ替えたりした場合、それはその人間なのだろうか??入れ物だけになってはいないか。(私の記憶なので曖昧ですが)

それに対して、渡辺格氏が話したのは、分子生物学がどんなに研究が進んでも、怪物を生み出すのは困難だ、だけど文学は違う、文学によって人は扇動される、だから文学の方が怖いと話していた。

そう考えると、文学にも生物学にも基本的な規範があって、どちらにも力が有るが、文字の力は強いのだと思う。

そして、人間は言葉を持ったものとしての責任を果たさなければ為らないという事だ。

書物は罪悪だ、と誰が言っていたんだろう。

書物には生きて行く知恵がある、そしてそれは人間の欲望だっり、神様に近づくための試行錯誤した文字なのかも知れない。

現代は殊に自分だけがより神に近づいたとして、文字を投げつける事由も有る。

人間には欲望があって、それを満たすためにどれだけ書籍を読み漁っても、きっと自分は形成されて行かない。

本が紙に近づく為のハウツー本ならば、読んだ所で自己形成が出来ずに、イカロスの様に落ちるだけなのだろう。

それでも、本来人間が持っていた、弱きものと強きものが補い合って、社会を作ってきた事を考えれば、文学や溢れる文字はもっと有用で、もっと大切な物なのかもしれない。

自己表現としての文字が、他人を傷つけたりせずに、記録以外の大切な物に成るには、もっと表現が自由でなければ為らないのかも知れない。

そんな風に考えながらも、今日も私の文は不自由さが見える。

表現を絞っているからではなく、きっと表現が有り過ぎて、拾いだすのに苦労するからだ。

私はこれから、好きな本を早く読めないのかも知れないな。

言葉の責任を考える限りは。





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