さよなら原辰徳
自分の生まれた北海道のとある地について、なんてつまらない場所なのだろうと思い始めたのは中学から高校にかけてだった。
幼稚園や小学校からの友達、知った顔にずっと囲まれた環境でそれなりに育っていった。今となっては緊張の少ない環境はそれはそれでよかったようにも思う。
子供というものは、どんな状況からも割と遊びや楽しみを見つけて生きる生き物だなと思う。理由については別の機会に書こうと思う。
中学2年のある時、友達のなおちゃんが「ジャイアンツってカッコいいから観てみなよ」と話をしてくれたことがある。当時のテレビの野球中継は決まってジャイアンツ戦だった。日本ハムファイターズが北海道に招致されるのはそのだいぶ先のことだ。
まんまと多数の友達とテレビで巨人戦を観るようになった。記憶では、ホームの東京ドーム戦はSTV(日テレ系列)、横浜戦はHBC(TBS系列)、阪神戦等はNHK、他は記憶していないがテレビがない日はラジオで聴いた。
情報源は選手名鑑やスポーツニュース、スポーツ新聞や『週刊ベースボール』、『月刊ジャイアンツ』とラジオの『ジャイアンツ情報』などだった。
『月刊ジャイアンツ』の購入については小遣いと気恥しさを浪費した。前述のなおちゃんが「まちの酒屋で取り寄せてくれるよ」という教えを参考に自分も取り寄せを頼み、毎月「取り寄せの『月刊ジャイアンツ」をください」と店で言わねばならなかった。親にも「『月刊ジャイアンツ』を買うから酒屋に寄ってほしい」と頼まねばならなかった。父はわたしがジャイアンツ戦を観ることを嫌がっていた。
最初の推しは駒田徳広選手だった。特に興味はなかったがなおちゃんに勧められたのだと思う。体格がよく、長打の多い選手だった。そのうちすぐに横浜へ移籍してしまった。次に遊撃の名手川相昌弘選手を応援した。
一方、なおちゃんの推しは緒方耕一選手だった。
広島の監督を務めた緒方孝市選手と同じ読みの選手だが、ジャイアンツの緒方選手は非常に甘いマスクと俊足で非常に女性人気が高かった。オロナミンCのCMでもセンターを務めていた。緒方選手のインタビューと応援歌が収録されたCDが存在し、わたしも借りてカセットテープにダビングして聴いたりもした。
さて、当時のジャイアンツは微妙に強くなかった。藤田元司監督のもとAクラスになれるかどうかという位置にいた。『ズームイン朝』のプロ野球のコーナーではいつも「首の皮一枚」と言われていたのをよく覚えている。
そんなジャイアンツの4番を務めていたのが若大将こと原辰徳選手である。
原選手は本当にかっこよく見えた。何もかも一流で輝いているようだった。しかし、その時期は、野球を深くわかっていないような中学生の自分も「いいところで打たない」ことに薄々気が付いていた。
そんな原辰徳選手に9回表、一発同点のチャンスが回ってきた。
そう、伝説の「バット投げ」のホームランが生まれた日だ。ホームランを打った直後、ものすごい気迫でバットを思い切り放り投げてみせた。現在、検索するとその様子が今も見られるが、バットをものすごく投げたので、スタンドに入ったのはバット?という映像がほとんどだった。後方にいた選手に当たりそうになったとかそういう話もあるにはあるが記憶にはない。
痺れた。
あれはカッコよかった。
のちに「道具を乱暴に扱った」だの色々いちゃもんがついたが、わたしにとっては野球の醍醐味というか原辰徳選手の醍醐味を観たように思う。
時は過ぎ、野球への興味は薄れ、Jリーグファンになるなどし、高校を卒業して進学のため、ひとり暮らしをした。短大から札幌の大学へ編入学し、就職難関係なく積極的に就職せず、日本語教師として韓国で遊ぶように働いて、地元に戻って数年働いた後結婚し、神奈川県で生活することになった。
子供が生まれ、すぐに成長し、中学受験をすることになった。このことについても後に触れていこうと思うが、子の受験は親次第ということで自分にとっては激しい苦労で、息子が6年生の秋には少し入院するなどし、2月の受験本番には行動する気力がなくなり、オットが子の付き添いを務めてくれた。息子は中高一貫校に進学した。それが、2018年だ。
そしてようやく「意識」を取り戻したわたしは、やっとのんびりと世界を見回すことができるようになり始めた。盆も正月も毎年きちんと定まった日に来ていた。
2019年も正月はやってきた。オットが毎年見ていた『とんねるずのスポーツ王』を一緒になんとなく観ていた時だ。
その奇蹟の男は突然わたしの前に現れた。
バットをひと振りしただけで華麗であった。
その男こそ、福岡ソフトバンクホークス、というか地球の至宝、柳田悠岐(やなぎた・ゆうき)選手、その人である。
「なにこの人、すごい」
「知らないの『ギータ』だよ、ギータ」
彼はあの当時の原辰徳選手よりも圧倒的だった。バラエティ番組でのバットひと振りでわたしの心をつかんで離さない、それは本当に衝撃であり、救いだった。
わたしが「意識」を取り戻すまでの間、ほぼ野球は観ていないが、何となく自分は巨人ファンに属している空気を纏わねばならなかった。あの頃の若大将は「巨人軍」の監督を務めるようになったり、よからぬ行動も報道され、一度チームを離れたりしていた。
さよなら原辰徳。さよならジャイアンツ。
その瞬間を境に、わたしはホークスファンになることを突然宣言した。
横浜で生活しているので、開幕前の自分の誕生日プレゼントにスカパー!の「プロ野球セット」という数チャンネルの視聴契約をねだり、視聴環境を整えた。
柳田悠岐選手はまさに圧巻、豪快で美しいフルスイングでチームを勝利に導く見事なアーチをいくつも描いてみせていた。今もそうだしこれからもそうであろう。
彼は、わたしを首都圏の球場だけでなく、九州へも旅させた。
北海道と本州は気軽に往来していたが、また海を越えて九州へ飛んだときは非常に緊張し、興奮した。自分の歴史も越えたのだと思う。情報はいくらでも手に入る。仕事が終わればスマートフォンでプレイボールを見届けながら帰宅することもできる。掌の中でホークスが野球を始める。
そして「ギータ」がワクワクするようなフルスイングをする。
ヘルメットがくるりと落ちる空振りさえも生で観るに値する。
その姿に憧れるのは子供だけじゃない、大人だって憧れる。彼に強く支えられているのは大人のほうが多いかもしれない。
だからわたしもギータのサインが欲しい。
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