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韓国で生活してみた part1わたしの言霊信仰編

    2000年、大学を卒業して就職しなかったわたしは車の免許を取った後、日本語教師の養成学校に半年間通った。
就職しなかったのは、ただ単に仕組みがよくわかっていなかった。自己アピールみたいなものもやっているうちに「自分をアピールするなんてできない」と投げ出した。
   
    日本語教師の養成学校は自分の興味で通い始めた。外国の人が一生懸命話す日本語が好きだったのと、バリバリ文系だったので自分を活かすならこれかなと思った。
   学校に入ってすぐに「日本語教師では食べていけない」という現実を知らされた。専任教師として雇われる人数は少なく、他は非常勤講師で賄うためだそうだ。もう20年も前のことなので現状どうなっているのかは知らない。
   それでも半年間の講座を修了し、特にすることもなかったので単発のアルバイトをしながら夜はすすきので友達と飲食したり遊んだりしていた。

   単発のアルバイトで印象的だったのが生花の卸し業者での仕事だった。

母の日に向けてカーネーションのアレンジの出荷をするために短期のアルバイトを募集していた。近所だったのでそこで使ってもらった。

   そこはババア達の職場であった。50代くらいのおばさんしかいなかった。それ以上の年齢の人もいたけれどもれなく女性だった。
   そこへ自分と一緒に同じくらいの女の子が同じく短期で入ることになった。

   もう入ってすぐに分かった。
   ババア達には派閥があり、やり方で揉め、大変そうだった。二派の対立だ。
   でも自分は10日間くらいの短期だし、黙々と言われたことをやろうと思っていた。日光の入らない大きなプレハブの中は母の日を前にとても冷えた。
ただ、運び込まれる花々がとても素敵で気に入っていた。帰りに余ったシャクヤクの花を貰えたりした。

   しかし、黙々とやろうというわたしの狙いは残念ながらババアによって邪魔されることになった。

   作業は、花を生ける「オアシス」という緑色の吸水する固いスポンジを用意し、そこに決まった花を挿してアレンジを作っていく流れ作業だった。
その流れ作業は、数人のグループに分かれて行うのでおばさんの興味の標的となることがあった。

   あるタイミングで、本当に自分の話をするのが面倒になったので、あれこれ聞かれたり、話しかけられているのは気が付いていたが、スルーして作業をすることにした。
   
  「返事をしなさいよ」

   (はぁ。黙って作業したいのに。)

   「ん!わたしですか?すいません聞いてなかった、なんですか」取り繕うとババアはこう聞いてきた。他のおばさんたちも「やめてあげなさいよ」というウンザリ顔だった。

    「あなた、何してる人なの」
    「そうですね、大学出て日本語教師の学校に行ってました」
    「それじゃあこのあとどこに就職するの」

就職。
うざすぎる。
聞いてどうすんのよ。
カッとなって思いきり大嘘をついた。

    「夏から韓国で日本語教師をします」
    「あらー、すごいわねー」

どうせもう会うこともないし。これがどうなるかなど何も考えなかった。



10日間の短期アルバイトは終わった。


   夕暮れ時、わたしは友達に誘われてすすきのへ向かうため、大通駅方面へ向かっていた。厚別に住んでいて、友達と遊ぶ時には東西線の新さっぽろ駅から大通駅へ出る。
   大通駅からすすきのへは地下街を通ればすぐにたどり着ける。
   
   雑多な駅から地下街と上がるとき、突然呼び止められた。

  「さちこさーん!さちこさんじゃないですかぁ!」

   見回すとすれ違ってふり返った先に養成学校で一緒だったひとつ年下の女の子が立っていた。おお、サイトウさんだ。
   サイトウさんは、大学4年生のうちに養成講座に通っていた立派な子だった。就職についてまじめに考えているんだな、という印象のクラスメイトだった。

   「何してるんですか」
   「飲みに行くの、友達と」
   「じゃなくて!」
   「え?」
    「今、どこかで仕事してるんですかって」
    「ああ!してないしてない、なーんも。ていうかすごいね、会うと思わなかった」

    ここで、わたしの大嘘がわたしを動かし始めるのである。

    「ねえ、さちこさん!わたし来月から韓国にいくんですけど、一緒に行ってもらえませんか」

サイトウさんは人々が往来する場所で突然そう切り出した。

   「え、別にいいけど、なにそれ」

もうひとり暮らしも数年経っていて「生活するならどこでも同じだ」と日々感じていたので全く迷いなどなかった。引っ越し感覚でそれ以上のことは考えていなかった。

   「養成学校で、もうひとり教師を探しているので面接を受けてもらえませんか、自分だけじゃ不安で。おねがいします」

   飲みに行く前に道端でするやりとりとは思えないけれど「オッケー、じゃあ時間だから行くわ」と別れた。

   数日後、面接のアポイントを取り、養成学校に向かった。もうひとり、クラスメイトだったテニスプレーヤのナダル似のお兄さんと再会し一緒に面接を受けた。必要としているのは女性の講師で、話はすぐに決まってしまった。
   事後報告となったが両親も反対しなかった。「いいわねえ」と言っていた。何も心配していなかったようだ。


   2001年7月のある日、飛行機を乗り継いで、20時に韓国に到着した。初めての異国は独特のにおいがした。湿気を含んだお香の煙のようなにおい。現地の語学学校の校長とコーディネーターさんに迎えられ、食事をし、部屋に案内され、ひとりベットに倒れこみ、思いきりやっと気が付いた。


   言霊ってマジであるわ!


   大学に編入学する前、国文学を学んでいた。
かつての日本では「国見」というものがおこなわれていた。
ただの大地を見下ろす高い場所に立ち、あたかもそうである素晴らしい光景をうたに詠み、現実になることを願う言霊信仰というものがあったと学んだ。言葉には魂が宿っている。舒明天皇のうた。

   あの時、アルバイト先のババアの質問攻めをやり過ごすために、はっきりと言い切った大嘘はあっという間に現実となっていた。

   わたしはベットの上で大笑いした。

  そしてそのことを日記帳に書きながら眠りに落ちた。


(つづく)



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