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待ちぼうけの靴下

道端に、靴下が落ちていた。

「ねえ、ママ、どうして落ちてるの」

ベビーカーのカバーの中で息子が身をよじって聞くが、私だって知らない。

子どもの靴下が落ちているのなんて、よくある。
まだブカブカだと思っていた靴下が、知らぬ間に小さくなって、スポンと脱げてしまうのだ。

わが家にも、片方だけ残った小さな靴下がたくさんある。
もう履けないと分かっているのに、なぜだか捨てられない。

だけど、目の前に落ちているのは、子どもの靴下じゃない。

真っ黒な紳士ものの靴下だ。
何も柄が付いていなくて、いかにもビジネスっぽい感じの。

「どうしてこんなところに落としたんだろうねぇ」

履いている間に穴が開いて、履き替えたのかな?
いや、まだ新しくて、穴は開いていなさそうだ。

汚れてしまったから履き替えたのかな?
いや、キレイでそもそも履いていないように見える。

洗濯物が飛んできたのかな?
いや、昨日から小雨が続いているから、洗濯物を外に出したりしないだろう。

もしかしたら、徹夜明けのサラリーマンが新しい靴下を買ったのかもしれないな。
あるいは、面接に向かう就活生が、ビジネス用の靴下を忘れて買ったのかもしれない。

それにしても、落ちているのは片方だけだ。
もう十二月も下旬。
靴下を失くした方の足が寒くて仕方ないのではなかろうか……などと老婆心が顔を覗かせたその時。

「おーい」と声がした。
どこか上のほうだ。

「おーい、おーい」と何度も呼びかけられて見上げると、団地の二階のベランダに小さな手が揺れていた。

ぴょこ、ぴょこ、と顔が出る。
まだベランダの柵に背が届かないのだろう。

「そ、れ、くだ、さ、い!」

小刻みにジャンプしながら、男の子が頬を染めて叫んだ。
私は団地の下に近づく。

「これ、坊やの?」
「うん。うちのお父さんの」

「飛んでいっちゃったの?」
「うん」

「ベランダで遊ぶと危ないよ」

余計なお世話かと思いながらの注意にも、男の子は素直に「うん」と応えた。

「だけどね、僕ね」
「なあに」
「お父さんにも、来るといいなと思って」
「何が?」

首をかしげる私に、男の子は続けた。

「僕のは、買ってもらったんだ。靴下」
「うん」

「だけどね、お父さんの分は要らないっていうんだ」
「うん」

「でもね、やっぱり、お父さんも、本当は欲しいんじゃないかと思って」
「うん?」

「僕のうち、煙突がないでしょ」
「そうね」

「だからね、ベランダに出しておいたんだ」

私はようやくピンときた。

「お父さんに、サンタさんが来るようにと思って、靴下出しておいたんだよ」

男の子は嬉しそうに言い切った。

「サンタさん、来るかなぁ……」
「ふふふ、きっと来るよ」

思わず頬を緩ませかけた私は、次のひと言に一転して凍り付いた。

「僕んちね、お父さんがね、いないの」
「え」

「僕が小さいときに、いなくなっちゃった」

何も言えない。

「だからね、サンタさんに、毎年お願いしてるの。お父さんを返してくださいって」

男の子はもうぴょんぴょんと跳ねるのをやめていた。
ベランダの柵越しに届く声が、どんどん小さくなっていく。

「それでね、お父さんが帰ってきたとき、プレゼントがあったら、きっと喜ぶと思うんだ。だから靴下を下げておくんだ。僕のぶんと、お父さんのぶん」

最後は鼻声だった。

この靴下は、男の子がお父さんのために買ったのかもしれない。

お父さんは、どこに行ってしまったのだろう。
いつか帰ってくる日は来るだろうか。
その時、息子が下げた靴下を見て何を思うだろうか。

沈黙が流れる。
こういう時、何と言ったらいいのだろう。
胸が苦しい。

「……これ、持って行ってあげるから、玄関まで出ておいで」

ようやく絞り出した私の呼びかけに「はーい」と応え、足音が室内に消えた。

小雨はまだ降り続いている。
こんなにどんよりした空でトナカイを走らせるのは、ちょっと大変そうだ。

私は、いつもバッグに忍ばせているチョコレートを黒い靴下に入れた。

今宵、サンタクロースがやってきますように。
あの子の望みが、いつか叶いますように。

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