見出し画像

「 母親 」 という肩書き

子育てを例えるなら、毎日変化球の球を投げられているような気分である。

ある日、
「 にんじんが食べたーい 」と、野菜嫌いだった長男が珍しく言うので、貴重な瞬間を無駄にしたくないと、急いでお湯を沸騰させてにんじんをピーラーで剥き包丁で切って鍋に入れる。

数分後、「 は〜い、できたよー! 」と上機嫌で持っていくと、

「 え? もう、いらなーい 」

は、はい?!?

数分前、君、言いましたやん!って思わずツッコミたくなったが、本当に一口も食べることなくご飯は終わった。

今では笑い話だか、そんなことは日常茶飯事。
にんじんも「いる!」って言われたらすぐに出せるように生のままで切って、マヨネーズだけでも良かったのである。

そんな風に子育て変化球を毎日受けては、その難題解決に母は日々成長させてもらっている。


肩書き

私は仕事で役職をもらったことがない。
責任ある役割を与えられたことがなくいわゆる平社員だった。

そんな私がある日、長男を授かったことで「 母親 」という肩書きがついたのである。
「 母親 」という肩書きは私には重すぎる役割だということを後に知る。

なんと無責任だったのかと自分で情けなくなるが、
何もなかった私に「 母親 」と言う肩書きを与えもらい、
全力で頼ってくれる子たちがいるから頑張れるのである。

時には、肩書きを投げ出し逃げたいと思うときもある。
私にはこの肩書きは合わないんじゃないかと思うときもある。
他の人の方が立派に育てられるんじゃないかと考えるときもある。

難題

子育ては勉強のように参考書があるわけでもない。
「こう聞かれたら、こういう」なんて答えがあるわけではない。

2020年から小学校ではプログラミング教育が始まり、2022年から高校生はお金の授業が導入されたようだ。

しかし、子育てはどうだろう。
もっと前から小学生の時期から生理と同じように実体験を通して学びたいと思ったがそうはいかない。

その子その子にあった子育てを、実体験を通して日々学んでいくしかない。

本屋に並んでいる子育て本に、
「子供を褒めて伸ばす」や、「ママは毎日笑顔で」なんて書いてあるが、
忙しくて手をかけてあげられない時や、つい「もう〜」なんて小言を言っては、自分の母としての不甲斐なさに反省することばかりなのである。

一昨年、次男のことで保育園から呼び出された。

○○くん、クラスで一人だけ行動が遅れているんです。

おやつの時間になってもパジャマで着替えないので、みんなでいただきますができない、他の行動の時も集団行動が遅れていると聞かされた。
すごく申し訳ない気持ちと同時に私の育て方が悪いと言われているような気分になった。

それから発達支援センターで何度か診てもらい、ASD傾向があると言われた。今は保育園で加配をつけてもらい療育にも通い始めた。

ASDという特徴を私もある程度ではあるが理解をしてきている。
でも集団行動の苦手さから難しい場面も多い。

こんなレベルの高い子育てが私に努まるのだろうかと不安になるときもある。

「二人目は経験しているから楽になるよー」なんて言われていたが、
私にとっては一人目も二人目の子育ても全く違い毎日てんやわんやである。

不器用で、どーんと構えられる人になりたいと思うが、
私は完璧な母親ではない。

時には、いやほぼ毎日「 失敗 」をしていることを見てもらいながら
「 失敗しても良いんだよ 」ということは伝えられる。

毎日反省の連続だけれど、
子供にとって安心できる絶対的な味方(サポーター)でいようと思う。

子供を否定せず、一人一人認めてあげる。
幼いときは良い環境を与える整備をし、その道をどう創って進んでいくかは子供を信じて見守りたいと思う。

育児 = 育自

「 母親 」はまだまだ私には重すぎる肩書きだが、
いつか、勲章のように自分に馴染めていけたら良いな。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?