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ガチ恋/リアコについて真剣に考える

※本記事は、いわゆるガチ恋あるいはリアコと呼ばれる状態にある人達を揶揄したり貶める意図は全くありません

アイドルに対して本気になって恋愛感情を抱く現象、また実際そのような片思いをしている人を含め、ガチ恋(主に男性→女性の場合)あるいはリアコ(主に女性→男性の場合)と呼称されます。以下、総称としてガチ恋/リアコと表記します。

言葉を選ばずに言えば、そこには多分に揶揄・嘲笑の意味合いが強いと感じられることがしばしばです。しかしガチ恋/リアコの人こそ、アイドル側としては購買層として「良客」になり得るということもまた事実です。

そもそもアイドル業界が存立する上で、男女を問わずファンに対しての疑似恋愛を演出する本質的構造が備わっています。アイドル本人の容姿、雰囲気、声、話し方、… これら人間の持つ先天的な要素を演出というフィルターを通して後天的・人工的なものとして生産(プロデュース)する営みがそこにあります。ダンスや歌唱などは二次的なものです。堅苦しく書きましたが、言い換えれば、少なからずガチ恋/リアコになることを意図的に誘発する演出が大いにあるということです。

アイドルがファンに見せている側面は、本人が意図する・しないに限らず「演出された」部分となります。そしてそれだけを見て恋に落ちることは、アイドル本人を見ているようで実はそうではないことを意味します。当たり前の話ですが、ここからが本題です。

ガチ恋/リアコという現象は非常に逆説的なものです。なぜならガチ恋/リアコの人がアイドルに対して恋愛感情を抱き、そしてその感情が高まるほどにアイドル本人の姿からは遠ざかるからです。ギリシャ神話のシーシュポスのように重い岩を携えて険しい山を登れど、あと一歩のところで岩の重みで下に転がり落ちるようなものでしょうか。周囲のガチ恋/リアコの話を聞く限りにおいても、非常につらい恋愛をしているという印象はぬぐえません。

アイドルという存在は様々なハードルを設けられたものです。芸名で本名が伏せられていたり、年齢や通っている学校が秘密になっていることが多いです。すっぴんを晒すアイドルもあまり見られません。やはり提示される情報やヴィジュアルに依存するしかないのです。それが神秘性に繋がります。結果がどうであれ、対象者がアイドルとしてデビューすることで世に出たからこそ恋に落ちることができたという事実は否定できないものです。

アイドルをテーマにした創作物は枚挙に暇がありませんが、あえて別のアプローチをとります。私が昔からよく読む小説に、ガブリエル・ガルシア=マルケス著『族長の秋』という作品があります。


南米にある架空の国家で何十年、百年?の長きにわたり独裁者として君臨した大統領の話です。この小説では「われわれ」と名乗る民衆たちが尾ひれ羽ひれのついた噂話を延々と語っていきます。しかし読者としては、なかなか大統領本人の内面に立ち入ることはできません。

この小説は恋愛に関する作品ではありませんが、アイドルとオタクの関係に通じるものがあります。互いがそれぞれの役割を演じることで成立しています。サービスの提供側・受益側では割り切れないのはここにあります。演じる自分というアイデンティティが生まれ、普段の日常とは少し異なる自分のありようを示すことができます。ステージの高さが低い歌舞伎町のライブハウスであれ、東京ドームの階段席であれ、それは同じことです。各々がその役割を超えることはルール違反ですが、アイドルが見せる演出された部分に無上の価値があって、かつ実際に恋愛感情を抱くことを止めるのは、むしろあまりに野暮というものです。

残念ながらガチ恋/リアコが、その思いを遂げた事例は確認される限り殆どありません。強引にハインリッヒの法則(1:29:300)を持ち出してみます。

1 推しと結ばれる(繋がり含む)ガチ恋/リアコのオタク

29 推しと結ばれないガチ恋/リアコのオタク

300 そもそもガチ恋/リアコではない一般的なオタク

実は1:29:300の比率自体にあまり意味はありません。ここで私が強調したいのはアイドルとの1件の大願成就の背後に、何十、何百、あるいは何万のガチ恋/リアコのオタクたちの失恋が控えていて、さらにその背後には特段、ガチ恋/リアコですらないオタクたちが存在するということです。結果を残しての卒業であれ、わだかまりの残る辞め方であれ、その片思いは得てして報われないものです。

あらかじめ決められたルールの中で、あらかじめ決められた運命に従い恋に落ちる。ガチ恋/リアコは、他愛のない勘違いで単なる商業ベースの危うい恋愛なのかもしれません。チェキやオンライントークでたくさん話せたとしても結局虚しさが残ることもしばしばです。そう言うならば、漫画『ハチミツとクローバー』のラストシーンにもあるように、叶わない恋愛に意味などあるのでしょうか?私はあると思います。

儚いという漢字は人の夢と書きますが、まさにガチ恋/リアコを表しています。失恋は恋愛における明白な悲劇です。その悲劇は古き時代から人間のプリミティブな感情のもつれを芸術のレベルまでに昇華してきました。古今和歌集しかりハムレットしかり。ガチ恋/リアコの儚い恋も、そのひとつです。

アイドルが活動する時期は人生の全てではないケースが殆どです。特に地下界隈では卒業や脱退後完全にSNSなどで本人の近況を知る手段が失われるものです。本当に儚いものです。辛く苦しい報われない恋だとしても、私にはその姿が眩しく映ります。葛藤や不満がある中で、それでもアイドルとしての推しを好きでい続けるのは並大抵の覚悟では出来ないはずです。私には無理です。早々にギブアップします。

これは持論ですが、推し活は人生に貢献するものです。恋愛も同様です。自分の感情の発露に対して向き合い、葛藤する姿は年齢や性別を問わず美しいものだと私は確信しています。ドラマティックな恋愛は誰しもができるものではありません。アイドルというアンタッチャブルな存在であれば尚更です。だからこそ、私は同じ一人のアイドルオタクとして、推しにひたむきになっているガチ恋/リアコの方々を尊敬しています。その一方で「推しが好きだ」という思いを抱いた自分を大切にしてほしいとも願います。推し本人にその思いがどのように届いているかはわかりません。思い描く結末にならなかったとしても、過ごした時間や思い出はその人だけのものなのですから。




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