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死生観について考えた~いのちの停車場を読んで~

こんにちは、kayokoです。
またまたお久しぶりになってしまいました。いかがお過ごしでしょうか。

今回は、最近読んだ本を通して考えたことを皆さんにシェアしたいと思います!

南杏子著『いのちの停車場』

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あらすじ
東京の救命救急センターで働いていた、六十二歳の医師・咲和子は、故郷の金沢に戻り「まほろば診療所」で訪問診療医になる。命を送る現場は戸惑う事ばかりだが、老老介護、四肢麻痺のIT社長、小児癌の少女……様々な涙や喜びを通して在宅医療を学んでいく。一方、家庭では、脳卒中後疼痛に苦しむ父親から積極的安楽死を強く望まれ……。

知らなかったのですが、5月から映画化されているようですね。
吉永小百合さん、松坂桃李さん、広瀬すずさん、西田敏行さんなど、キャストはとても豪華な顔ぶれ。
渋谷の映画館まで観に行こうと思いましたが、今月で上映終了とのこと。。

地上波放送を願いながら、楽しみに待とうと思います。

さて、こちらの小説は、在宅医療の現場で人々が葛藤する姿が生生しく描かれているのですが、それもそのはず。

著者である南杏子さんは、小説家でありながら現役の内科医でもあります。

終末期医療、積極的安楽死・・。在宅医療の現場で問われている、”死生観”について真っすぐ語られている本書は、決して他人事ではなく、生きている人全員がいつかは向き合わざるを得ないテーマなのです。

”死生観”について考える

皆さんは、”死生観”について考えたことはありますか。
どう生きたいか?は考えたことがあっても、どのように死にたいか?については考えたことのない人が多いのではないでしょうか。

まず、死生観の定義について、以下にのせておきます。

「死生観」とは、「生と死に関する考え方」のことです。生をどのようにとらえ、死をどのような基準で判断するのかという点が重視されることもあるのですが、主に死を中心にして、死をどのように捉え、または死後はどうなるのかといったことがテーマになる場合もあります。死生観は、文化的または宗教的な影響を受けることも多く、またその人の経験などから死生観が考えられて、人それぞれが異なる死生観を持つこともあります。

読んで字のごとく、生と死に対する価値観のことを指します。
自分らしい生き方、という言葉があるように、【自分らしい死に方】という考え方を定義したのが、【死生観】であると思います。

私は現在、病院のソーシャルワーカーとして日々患者家族の葛藤と向き合い続けています。

病気になってしまったこと、リハビリが思うように進まないこと、自宅に帰れないこと・・。患者本人・家族が、そのような事実に直面したとき、彼らの価値観である”死生観”が反映されます。

生命予後が思わしくない患者に対しては、自宅療養か施設もしくは療養病院など、看取り先の選択を迫ることになります。
リハビリの適応でない患者でも、家族が受け止めきれず、「もっとリハビリをさせてほしい」「服薬調整でどうにか回復できないか」など、回復を望み、医療者とぶつかり合う場面もあったりします。

私の現場は、本書で描かれている在宅医療ではないものの、医療において本人・家族に「選択」を迫るという意味では、同じような”葛藤”の現場を経験している私だからこそ、本書を読んでより、仕事への向き合い方や私自身の死生観についても、考えさせられました。

長く生きることが全てではない

私の考える”死生観”とは、次のような状況に陥った場合には延命を希望しない(自然に身を任せたい)という内容です。

①食べる喜びが感じられない
人間は衰弱すると食欲がなくなり、栄養がとれなくなります。もしくは、脳卒中等により嚥下機能が損なわれ、必要な栄養量が口からとれなくなり、経管栄養や点滴によって生命を維持するようになります。
食べることが生きる喜び!と言えるぐらい、私は食べることが大好きなので
もしそうなった場合は、そこまでして生き続けたい!とは私は思いません。そのため、胃ろうを作ることや、経管栄養の継続も望まないです。多少、むせこんだとしても、味と食感のあるものを、最期まで口にしていたいと思います。

②家族など自分の周りにいる人たちを認識できないほど、認知機能が著しく低下しているもしくは、衰弱しきって大切な人たちに意思表示ができない
自分を支えてくれた人たちに感謝を伝えたり、これまでの人生を振り返ったりすることは、人間らしい営みだと思いますが、そのようなこともままならない病状になっていた場合、私は延命したいとは思いません。

そのような状況=自らの力ではなく、医療者の力によって”生かされている”だけだから。

③痛み・息苦しさなど、意識がある状況で常に苦痛を伴う

『いのちの停車場』でももがき苦しむ患者の姿が描かれていますが、これは、とてもしんどいです。まさに、”生き地獄”

家族は「生きてくれているだけでいい」と願って、患者本人の意思を置き去りにして、積極的延命措置を望む場合があります。

ですが、それが家族の愛情、ではなく、”エゴ”になっていないか、考え直す必要もあると思います。延命治療は、患者の苦痛を伴うことがあるからです。

本人がそれを望んでいる場合は別ですが、そうではなく、家族が代弁せざるを得ない場合には、”患者本人の死生観”や、”患者本人が穏やかに最期を迎えられる環境”を最優先に考えるべきだと思います。

私は最期まで、自分の意思で生きたいと思っています。

家族と話し合っておきたいこと

私が医療の現場で感じていることや、私自身の死生観を踏まえて、家族とはしっかり自分の意思を伝えておく必要があると感じています。

まずは、上記で上げた3点を全て満たす場合は、延命措置は希望しないとはっきり伝えておきたいと思います。

同様に、両親や兄弟の死生観についても、できる範囲で把握しておくと、いざそのような状況になった際の迷いが減らせると思います。

終末期医療における選択は、家族にとっては最も過酷で、極限の精神状態を強いることになります。決めていたことであっても、命を失うことの恐怖心やこれまでの思い出などがフラッシュバックして、葛藤が生じることもあると思います。

失うことの恐怖よりも、腹をくくって、これまで積み重ねてきた思い出に感謝する気持ちを持ち続けるほうが、よっぽど大切だと私は考えます。

私らしい人生を全うする!!

いかがでしたでしょうか。久しぶりの更新で、だいぶ重苦しい話になってしまいましたが、私としてはとても有意義な考察だったと思っています。

死に方について考えましたが、大切なことは”明日死んでも後悔のない人生”を生きることだと思います。

明日もしかしたら、目が覚めないかもしれないし、不慮の事故で意識を失うかもしれない。考えたらキリがありませんが、毎日目が覚めて、健康的に1日活動して、眠りにつけるのは、幸せなことなのです。

そんな幸せな状況であることに日々感謝をし、元気なうちに自分と周りの人たちを幸せにするために、限られた人生の時間を大切に使っていきたいと思いました^^

最後まで読んでくださり、ありがとうございました~!!

#いのちの停車場 #死生観 #生き方 #人生

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