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社会経験ゼロだった人間が経験した、1995年ボランティア元年の出来事


1995年1月17日に起こった阪神淡路大震災からもうすぐ29年。
思うところがあり、この時の震災ボランティア経験を思い出す作業をしてみることにした。

それまでずっと実家住まいで、アルバイトも自分で旅行をしたこともない限りなく社会経験ゼロの小娘が、この避難所でやっていたことを思い出しながら書いてみたいと思う。
と言っても、もう29年前のことなので記憶は随分断片的であることはご容赦ください。

震災当日は、寝込んでいた


センター試験を終えたばかりの私は前日に大熱を出し、当時住んでいた山口県の実家で寝込んでおり、そこまで到達した大きな地震に全く気付くことなく寝ていた。
起きてのんきにリビングに行くと、TVに映る余りにも激しい被害の様子に大きなショックを受けつつ、自分の部屋でまた寝込む…というのを繰り返していた。
今思うと、学校を休んでTVで刻一刻と映される被害の甚大さを見ていたことは、自分に大きな影響を与えていたのかもしれない。

舞台は神戸市の避難所へ


それから約1か月半が経った3月1日、私は震災ボランティアとして神戸にいた。
私が向かったのは、校舎が大きく損傷し学校としての機能を停止していた神戸市のある区の小学校で、そこは避難所として使われていた。地震から約1か月半経ったその避難所では住まいに戻れない多くの方々が避難生活を送っていて、企業による社会貢献の支援をする、東京にある公益社団法人の学生部が中心となり、ボランティアとしてこの場所の運営を担当していた。ボランティアの中心は東京近郊の大学生達で、新たに参加する人、学校や就職など自分の生活のために戻る人、入れ代わり立ち代わりでまとまった人数の若者たちが、校舎の上の階(上の階に行くほど亀裂が大きく、避難者には利用させないということになっていた)で寝泊まりしながら活動をしていた。
(そのボランティア活動を市から受け入れたのであろう社団法人の上の人はたまに避難所にやってきたが、基本は不在であった)

この時通っていた学校の休みの期間を利用して、私は何度もこの避難所に戻ることになった。つまり、少なくとも数か月間その避難所はあり続けたのだが、その間に利用者は少しずつ減っていき、おそらく次への生活のメドを立てることができていない高齢の方がそこに留まり続ける格好になったんだと思う。

到着初日、避難所から少し歩いた場所にある仮設風呂に数人でお手伝いで向かった。自衛隊がつい前日に設置したばかりだというドラム缶による仮設風呂には、ビニールシートで簡単な屋根が張られ、我々が担当したのはその見守りだ。利用できる時間が決まっていたのだ。
がれきがあちこち残っていたが、歩いて移動する分に困らないといった具合だったと記憶している。

避難所ボランティアとしてやっていたこと


その少し後に避難所に仮設シャワーが設置され、我々はその掃除やトイレ掃除、トイレットペーパーの交換をはじめ、定期的に支援物資として到着するお弁当やパン、衣料品などなど様々な支援物資の仕分けや配布を担当した。そこにいた方々の年齢は色々で、自分たちがやったことは多岐にわたった。トイレやシャワーの使われ方が余りにも酷く、皆が気持ちよく利用するために…と考えて張り紙を作ったり、状況に合わせて工夫や改善する必要もあった。
そのほか、覚えているのは、食料の提供にしても賞味期限を見ながらバランスを考慮して配布をしていたこと、高齢者の方の身体的付き添いや、利用者が使っているスペースの移動について、利用者の細かなニーズに応えること、人数分ない支援物資の取り扱いについてなどなど。女性利用者から、男性ボランティアには言えなくて…と相談されることもあった。

ひとつ強烈に記憶しているのは、避難所での滞在が長くなった頃、利用者である少し年上の若者が仕事の面接に行くための履歴書の用意をしていたのだが、書く内容について一緒に考え、履歴書をより良いものにするための助言をしたことだ(笑) そういえば、彼は無事仕事に就けたんだろうか。

震災1か月半以降の避難所


私がこの避難所に到着した時には、当初この場所を切り盛りをしていたのであろう行政の方はすでにいなかったように記憶している(学校なので日曜日以外はそこの先生が交代でいらっしゃり、色々相談や交渉をしながらの運営だった)。
その代わりに、少し歩いた先の施設で行われるミーティングに2~3人ずつで定期的に参加していた(詳細までは記憶していないが、周辺の避難所の運営スタッフたちによる全体会議である)。

学生ボランティア中心の運営で、もちろん不備などもあったかもしれない。
ただ、活気がものすごくあった場所で、運営者が利用者の方々にとって子どもや孫の年齢の若者であることは、堅苦しさもなく、利点もそれなりにあったのではないかと思う。

避難所へのボランティアという意味では、私は阪神淡路でしか参加できていないので、29年経って、当時より利用者にとってほんの少しでも過ごしやすい環境が実現し、保たれていることを心から願っている。


被災地の状況やニーズは徐々に変わっていく。だからこそ…


このことを書こうと思ったのは、1日に起こった能登半島地震の災害支援の在り方について猛烈に思うことがあったからなのだが、発災から10日弱である今、まだ人命救助や緊急的な対策/復旧をはじめとする行政や自衛隊など、権限や専門的なスキルを持つ人々の力が必要であることが多い時期であることは確かだ。
でも、避難所で過ごす方たちの心と体を温める炊き出しは誰がやっているの?(その食材や水、燃料等々の調達を含む)という視点を忘れてはならないし、仮に長期的に避難所を運営し続けなければならなくなる場合、行政側もいつまでもベッタリと避難所に付き続けている訳にもいかないのだ。

内閣府の防災情報のページ「みんなで減災」の<はじめに 〜阪神・淡路大震災で認識された「新しい公共」の重要性〜>によると、のちに<ボランティア元年>と言われることになった1995年、阪神・淡路大震災において全国各地からのべ130万人以上の人々が各種ボランティア活動に参加したそうで、企業によるボランティア休暇/休職制度の導入もこの震災がきっかけでもあるようだ。

https://www.bousai.go.jp/kaigirep/hakusho/h22/bousai2010/html/honbun/0b_toku_01.htm

この記事中、私たちが時間を経る中でまさに行っていたことが機微を持って言及されていて、読んで正直驚いている。


全国各地から被災地に集まったボランティアは,救援物資の運搬,配布,瓦礫や家具等の片付け,高齢者の話し相手,子どもの遊び相手など,時とともに変化する被災地の要望に対し,柔軟な取組を行った。

https://www.bousai.go.jp/kaigirep/hakusho/h22/bousai2010/html/honbun/0b_toku_01.htm より

最後に

最後に、インターネットが一般レベルで普及する前の1995年に、東京の社団法人によるボランティア募集の記事を山口に住む私がどうして知ることになったのか…について書いておこう。
その学生部のメンバーのひとりが、配属の決まっていたある新聞社の福岡支社に交渉してこの募集記事が掲載され、それを読んだ私の父親が社会勉強として神戸に行ってみる気はないか?と勧めてくれたからなのだ。

かっこいい言い方をすると、それぞれがその場所でできることを行ったことの結果なのである。

結局受験に失敗した私は全くやる気のない学生生活を送ることになった一方で、この避難所で人生を変える出会いに恵まれ、(相当端折りますが)震災前には全く想像すらしていなかった人生の歩み方をしている。

その後、色々なボランティア活動をやったが、性格的にこれは自分には無理だ…とすぐやめてしまったものもある。(その場にいる人との相性も含めて)相性は人それぞれなのかもしれない。

2018年7月に広島などで起こった西日本豪雨災害では、JR沿線の復旧状況を注視しつつ、翌月、帰省に合わせて半日だけだったけど、復興ボランティアとして土砂かきのお手伝いに参加した。


自分の生活におけるタイミングもあるし、できることや向いていることはそれぞれ違う。
けど、やっぱり<お互い様>という気持ちは根底に持っていたいと思う。

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