縄文人なので旅に出る~祈りの長崎・原爆資料館・誰しもがジャーナリスト?~
いつもお世話になっております。
自称、縄文人のするめでございます。
長崎旅行が決まってから、行きたいなとずっと思っていた原爆資料館へ行ってきました。友達と2人旅だったのですが、最終日は飛行機が違うのもあって別行動にしました。
ちなみに長崎ランタンフェスティバル2024も行きました。
友達も原爆資料館に誘ってみたんですが「ぐっと来るからやめとくわ」と言われ・・・。1人の方がゆっくり見れるから大正解でした。
怒りの広島、祈りの長崎
この言葉は、学生時代に聞いた時にピンと来なくて「祈りの長崎?」とずっと心の残っていまいした。それからも、ドキュメンタリーで原爆投下の話になると広島にフューチャーされることが多く夫も「何故、長崎のことは何も触れないのか?」と聞かれた時にただ「祈りの長崎というぐらいだからでは?」としか答えられず・・・。時折もんやりとして、ちゃんと長崎で見て来ないといけないなと感じていました。
原爆資料館で感じたことの2つを話題にしたいと思います。
1つ目は、祈りの長崎という意味を知る。
2つ目は、誰しもがジャーナリスト?
(目次の作りかたが分からなくてすみません・・・)
祈りの長崎という意味を知る
するめは、修学旅行で広島の原爆資料館へ行きましたが、長崎は初めてでございました。中華街にあるホテルで泊まっていたので、路面電車で「赤迫行き」に乗って街並みを見ながら原爆資料館で降りて行きました。少し小高い丘にありました。
資料館は、とても明るく白を基調としていて下に向かって資料室に行くのですが、時間を遡るようになっていてたどり着くと原爆投下された11:02の時間で止っている時計が目に入ります。
それからは、どのようにして爆風がきて、熱線がきて、放射線がきて街が破壊されていく様を見るのですが、さっき路面電車で見た地名が出てくると。
そうか、あそこらへんが。と思うと段々と心が無になったり、ちくちくしたり、ぐるぐるするのを堪えながら見ていきました。
無残に曲がる鉄塔、崩れ落ちた教会、ぐにゃりと曲がった瓶に、多くの死体に人間が陰になり。
どんどんと、心が複雑になってきて、頭もぐるぐるしてきて。
資料館の最後らへんに原爆日記があります。そこには、長崎で暮らしていた人が書いた日記が本になっていて、1冊手に取って広げてみると「李さん」の日記で、最後までは読めませんでした。
泣いても、何の解決にもならないと自分に言い聞かせて資料館を見ていました。
長崎での原爆もそうですが、世界で起きた水爆実験で被害があった人達のインタビューもありました。
原爆資料館の横に国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館がありました。そこへ行ってみると写真とともに、原爆と平和へのメッセージがあった。顔を見ながらメッセージを読み進めていくと原爆を許したわけではなく、平和を祈っている。それは、キリスト教徒が多かったからではないとするめは思いました。だけど、この場所に来ないと分からないことだと改めておもう。
誰しもがジャーナリスト?
するめは、この旅をカメラ修行とサブタイトルを付けていた。カメラのレンズを貸してもらい上手く撮れたらいいなって思いながら撮っていたのだが、原爆資料館ではそれは出来なかった。見るだけで心が苦しい品々ばかりだったからだ。だけど、ある1人で来ていた男の人だけは一眼レフカメラでバシャバシャ撮っていた。
もちろん、館内に撮影禁止は書いていない。だけど、頭蓋骨がくっ付いているヘルメットや、原爆死した人が沢山載ってる写真を撮る必要があったのだろうかと考えてしまう。
禁止と書いていなければ何をしてもいいのか?と思ってしまう。カメラというツールを沢山の人が使えるようになった。だが、それはジャーナリストになったというわけではないと思う。
カメラを使っておきながら、大切な場面は必ず目で見たいと思うするめだからそう感じるのかもしれない。
最後に、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館で書いていた言葉
今歩いているその土には、沢山の亡くなったひとの上に歩いています。
この言葉が胸に突き刺さりました。
この便利で自由の世の中は、犠牲の下にあるものだと多くの人は感じないといけない。
ほんだらまた!