ブログ記事(vol.4)病気の原因「毒親」の呪縛

病気の原因「毒親」の呪縛 (vol.4)
2015年07月26日
今日も当ブログをご覧頂き、ありがとうございます。

これまでの日記(vol.2「双極性障害って何?」&
vol.3の「お薬の話 と 服用後の症状の変化」)では、
医学的な研究が未だ遅れている気分障害の病気である
「双極性障害」について、お話ししてきました。

まだまだ、この病気については今後も書いていこうと
思っていますが、今回は少しフォーカスを別の観点に
ずらして、病気になる以前のお話をしたいと思います。

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「病気」といわれるものは、それが肉体的 なことで
あっても、精神的 なものであっても関係なく、
全ての病気において、そうなった「原因」が
何か必ずあるはずです。

この世には、患者の病状改善に効果がある薬が
開発済みのものもあれば、未だ病気に効く薬がなく、
ただひたすらに死が訪れるのを待つしかないような病気
に苦しんでいる方が多くいらっしゃます。

先日、NHKの『ハートネットTV』という 素晴らしい番組
の特集で「広告プランナーヒロ 難病ALSとの闘い」(vol.1)
を見ました。例えばこの「ALS (筋萎縮性側索硬化症)」という
病気にも、特効薬が存在していません。
まだ30代のヒロさんは病院に寝たきりで、日々若い自分の
身体が動かなくなっていき、最後は死が訪れるのをただ
ひたすらに待つしかない状態です。

ヒロさんは、そんな現状に声をあげて 自分の経験と能力を
最大限に生かして今現在、回復への道を模索しています。
彼の活動情報は、動画を含めてネット上にいくつもありますが、
参考までにひとつ載せておきます。
   http://logmi.jp/17723

特効薬の開発という問題に限らず、「医学的に証明」
できてようが、いなかろうが、病気には原因があります。
病気によって、例えば「自閉症」などの遺伝子にかかわる
病根であれば、「持って生まれたもの」という意味において
仕方のないことかもしれませんし、その原因を追求するのに
意義があるかどうかは正直、私にはわかりません。

しかし、特に「精神病」という枠の中での話になると、
病気が発祥した「病原」を探ることは決して無意味ではなく、
それどころか投薬で脳内の分泌物の異常を普通に戻すことが
できたとしても、「なぜ精神病になったのか」という問題を
自分の中で消化できないままでいると、再発は免れないと
思われます。「双極性障害」や「うつ病」などの精神病は、
多くの場合、

    ● 脳内分泌物の異常(「身体の病気」)
    ● 精神的ストレス  (「精神の異常」)

の2点が大きな原因だといわれています。
お薬の投与によって、セロトニンなどの脳内分泌物の異常が
通常に戻って、長期にわたって安定し、思考回路も戻り
自ら物事を「考えられる」ように回復してきたら、
患者である私たちの次の課題はこの「原因の追求」です。

この私にも「双極性障害」になった原因がありました。
私がどうしてこの病気に悩ませられるようになったか、ここで
お話したいと思います。

病気の原因はもちろん、多くの場合ひとつではないでしょう。
小さなことの積み重ねが大きなストレスを生んでしまう場合も
あるとは思います。しかし、今回の私の場合は違います。

小さなストレスはもちろん、色々ありました。
でも、「自分の心の声」(自分がよく口にしている言葉や
無意識によく考えていること)に対して、逃げたり無視したり
せずに、どんな小さなことにでも耳を傾け、時間をかけて
「自分の心」 を見つめ直していくうちに、
病気になったひとつの「大きな原因」が見えてきたんです。

まさに言葉通り「諸悪の根源」 の発見でした。
それは私の両親、つまり「毒親」です。

病気になるまで、気がつきませんでしたが、
自分の過ごしてきた 幼少時代 から 20代 までの過去を
振り返ると、私は「がんばり屋さん」 だったと思います。
どんなに状況が絶望的でも、簡単には「あきらめない」
とても信念の強い子供 だったと
今は思うようになりました。

「双極性障害」と診断を受けて、私が一番初めに
起こした行動は「リサーチ」(調査)でした。
病気についての知識がほぼゼロだったので、
インターネットや amazonの電子書籍(Kindl)を
使って最新の書籍を読んだり、同じ病気の方の
ブログを見つけたりして、毎日少しずつ調べて
いました。

そんな中で気がついたことがあります。
それは、

 ● 辛抱強い「がんばり屋さん」であること
 ● 人の気持ちを自分のことのように考えられる能力に長けていること
 ● 親に問題があること

という共通点です。

調べてみて感じたのは、「双極性障害」になった
患者さんの多くが「とても慈悲深く、前向きで優しい」
といった「人間としての優等生」 である反面、
一枚皮をめくると、本人が自覚している以上に
かなりひどい家庭環境で育っていたり、また
親からストレスの「はけ口」にされていた経験
のある方が多いということでした。

これはあくまで私個人が感じたことですので、
もちろんすべての人に当てはまるわけではないと
思います。しかしあくまで「傾向」としては
的外れな意見ではないと思います。


私の家庭環境は、文字通り「最悪」 でした。
残念ながら、子供は生まれてくる前にどの親
に生まれたいのか、自ら選択することはできません。

人間は誰しも「生まれたくて、生まれてきたのではない」
わけで、尚且つ「死にたくて、死ぬわけではない」のです。
人生は本当に「一方的」な「強制」で成り立っているとも
言えます。そういう背景に生活しながら、わたしたちは
皆、「生きつづけなければならない」わけです。
そう考えると、本当の意味での「自由な人生」なんて、
存在していませんよね…

自分たちで「自己選択できる範囲」は人生の中でも
本当に限りのある「生きている時間」の間だけの話です。
最初と最後は差別なく、みな同じ道で決められています。

先述の通り、私の家庭環境はたいへん酷かったです。
日記の vol.1 で自己紹介をしたときに、経済的に苦し
かったと書きましたが、それは渡欧してからであって、
日本で生まれて育っていた期間は、そうではありませんでした。

上流階級というわけではありませんでしたが、
ある程度は経済的に基盤のある家庭に育ちました。 
表向きは「優秀で男らしい父親」と「笑顔でやさしい母」
の元に、最初に生まれてきたのが私 です。
でも、それはあくまで「表向き」。家の中は母の
泣き叫ぶ声が響く、バランスの取れない土台のない
「うわべだけの幸せ」がひしひしと伝わる空気で
いっぱいでした。

父は公務員で、職場でも有名な働き者で
尚且つ 周囲の信頼の厚い、日々「人間的な優秀さ」を
求める大変に生真面目な 九州男児。
母は友人の少ない、近所のおばさんと
会えば長話をしてしまう、きれい好きな主婦。

朝起きると、栄養バランスのとれた朝食をつくり、
会話の少ない父に弁当をわたし、コーヒーを飲む母
私が起きる頃には父はすでに出勤していて、
子供のときに父と遊んだ記憶は、「ほぼゼロ」というほど
「仕事熱心」な人でした。母は朝から晩まで私の世話
で明け暮れて、ひとりで大変だったろうと思います。


私が5歳 になるころには、生真面目 な父が
独身時代からコツコツと貯蓄していたお金で、
街の中心地に 120㎡ という大きな一軒家を立て、
そこに引っ越しました。
父と母が新婚当時から住んでいたのであろう
せまいアパートとは違って、家中を走り回れるような
とても大きくて広い、庭付きの家でした
しかし、新築のお家にもかかわらず、日ごとに
母の機嫌は悪く なっていき、
どうも新しい家のことをあまり喜んでいなかった
のが子供ながらにわかり、母に
「あの新しいお家にもうすぐ住むの?」
と聞いた覚えがあります。母の答えはなぜか曖昧で、
不満そうに「わからないわね」 と言ったのが
あの頃から不思議でした。

この私の反応でも分かるように、私はまだ小さく
コミュニケーションもままならない年齢だったにも
かかわらず、母の気持ちを肌で感じ取り、子供ながらにも
気を遣っていたのだと思います。
我ながら優しい子でした。

だれもが羨む新居に引っ越し、父はひとりで
満足げでしたが、日常に戻るとほとんど職場にいて
家には不在でしたし、母は掃除の範囲が広くなった
ので、さらに大変そうにしていました。
初めの数日は走り回れる広い家に喜んでいた私も、
一週間もすると、団地と違って周りに遊んでくれるような
子供がいない場所に、ひとりで退屈していました
遊び相手は掃除をする母 と 母が子供の頃から
飼っていた白犬 だけでした。


引っ越してすぐに、母は2人目の子供を妊娠。
私に弟ができました。小さくてやわらかい赤ちゃん
だった弟を私はとてもかわいがっていたようです
遊び相手が母から弟にかわって、毎日話しかけたり
しているうちに、2人とも喧嘩ができるほどに
成長していました。そんなある日。やさしかった母の
態度が一転して、大声で怒鳴られる日々が始まりました。

自分ではなぜ母が怒るのか、小さい子供の私には全く
心当たりがありません。
覚えている記憶をたどると、例えば、あめ玉を口に入れてから、
母が「ご飯の前にお菓子は食べないこと」と言われていたのを
思い出し、しばらくして口から吐き出してゴミ箱に捨てました。
すると、それが(なぜか)母に見つかり、こっぴどくしかられ
ました。しかし「食べたらいけない」と言っていたのに、同時に
「食べ物を無駄にした」と怒鳴られて、頭を思い切り叩かれました。
そうなると、「食べたらよかった」のか「食べなかった方がよかった」
のか、頭の中はパニックで混乱状態になります。
でも、理由を話そうとしても、怒り狂う母には暖簾に腕押しでした。
わたしは泣くしかありませんでした。 
そんなことが日常的に続くようになり、やがて気がつくと
私は「注意されると大声で泣き叫ぶ子ども」になっていました。

近所の人が心配して声をかけてくれていたのを何度か
目撃しましたが、その度に母は明るく「この子、言うこと聞かないんですよ。私も相当悩んで、困ってるんです。」と言っていました。
その度に私は、自分の気がつかないところで、いつの間にか「悪い子」
になっていたのだと感じ、ショックを受けていました。

「私は悪い子なんだ。だからいい子にならなくちゃ。」

まだ生まれて数年の「卵の殻から出たばかりのヒヨコ」
だったはずの私。背伸びをする人生の始まりでした。

・・・・・ ・・・・・ ・・・・・

長くなってしまったので、今日はこの辺にします。
続きは次回の「毒親とわたし」(vol.5)をお読みください。

では、また次回お会いしましょう。
今後もさーちゃんの「双極性障害になっちゃった」ブログを
よろしくお願いします。

今日もみなさんにとって、いい日でありますように 。

・・・・・・・・・

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【YouTube】https://www.youtube.com/watch?v=mIGXSrHBeuY&feature=youtu.be


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