ブログ記事(vol.5)「毒親」とわたし

「毒親」と わたし (vol.5)
2015年07月27日


前回の日記 (vol.4「病気の原因 『毒親』の呪縛」)
で、「どうして私が双極性障害になったのか」原因を探る
ため、私の幼少期についてお話ししました。

今回も引き続き同じテーマで、今度は幼少期から
成人するまでのお話を中心に書いていこうと思います。

・・・・ ・・・・ ・・・・

前回もお話ししましたが、弟が生まれてから
しばらく経って、私に対する母の態度が一変して、
毎日のように怒鳴られ ひどい時は
激しい暴力をも振るわれる
日々を過ごすようになりました。

そんな状況に最初は戸惑いつつ、子供ながらも
冷静を保ちながら、母の変わりように
「どうしちゃったんだろう…」
と、 いつも自問していました。
もちろん、いくら考え たって
答えなど見つかるはずもなく、母の「理由のない」
怒りに対し、やがて力ずくで泣き叫び反抗する
感情の激しい「手に負えない子」になっていました。

でも、いいようのない悲しみの中では、
誰にぶつけたらいいのか 分からない、
不条理な怒りを抱えながら、どうしようもなく
感情の波に飲まれていくしか、小さな私には
他に方法がなかったんだと今は思います。
なんだか書いていて、自分でも泣けてきます。


念願だった「男の子」が生まれて、上機嫌
だった父はというと、そういう状況を目撃
しつつ、とった態度はなんと「黙認」。
母が激しさを増して、怒鳴りながら何度も
繰り返し私を殴りつけていれば、さすがの父も
「やめろ」と言って止めに入ってくれましたが、
家にほぼ不在だった父は、私を本当には守って
くれませんでした。

今考えると、父は怒り狂う母とは係わり合いたく
なかったのかもしれません。
職場である高校に入り浸って、帰宅しても会話がありません。
夫婦喧嘩をしても、父は母の「不満や怒り」に
理解を示すわけでもなく、 たまに
説得して言葉で母を「ねじ伏せる」ことはあっても、
まともな話し合いもなく、今思えば彼ら2人の関係は
離婚する前から、もうすでに離婚しているのと同じ
状態だったんだと思います。
はじめから、「夫婦」ではなかったんでしょうね。


そういう家庭でしたので、言い争い になるとすれば
もっぱら「私と母」というのが毎日で、
父はなんだか私にとっては「いない存在」でした。
母方の祖母のほうがよっぽど私をかわいがってくれて、
たまにしか会えなくても、十分に「祖母」としての役割
を全うしていましたし、私にとっては存在感がありました。
おばあちゃんは、今でも大好きです。


私を「見殺し」にしていた遠い存在の父とも、小学生も
高学年になると、だんだん衝突することが増えていました。

成長するにつれ、「あまり家にいないけど、たまに
気が向くとボール遊びをしてくれるオジさん」だった父が、
私の中で「家族を大切にしない、世間には『家族は幸せ』
アピールを欠かさない、プライドの高い『演技派』保護者」
に変わっていったからです。

母に対する冷血とも言える態度も、休みの日になると
卒業生を招いて自慢話で明け暮れることも、
「俺の娘は足が長い」
「俺の娘は頭がいい」
「俺の娘は予知能力がある」
云々、そんな言葉も小さい頃は褒められていると
感じていましたが、現実がわかるようになった今、
白い目で見るしかありませんでした。

「あんたが、私のことを『俺の娘』っていう権利
ないだろうが!! あんたが私にくれたのは生活費と
精子くらいで、他にはないわ、ボケ 」

というのが、そのころの正直な心の声でした。
それでも応接室にいる卒業生や親御さんに失礼な
態度はとれなくて、引きつり笑顔で座っていました。
今考えても、ふざけた父親でしたね…。

父と母が怒鳴り合いの喧嘩になると、
食器は割れ、ものが飛び交います。
傍観者だった私の頭にあたり、出血したことも
ありました。そうなると最後はだいたい
母が大泣きして謝ります。
子供ながらに支離滅裂で意味がわからず、
毎回「喧嘩、おわったのか〜 」
って感じでした。

ですので、「和解」とか「許し」とか
そういう人生でも最も大切なものをいくつも
学ばないままで育てられてしました。
自分で書いていて、我ながらすごい悲惨な
家庭環境だったと、改めて思います。


成長するにつれ、父親の「干渉しない冷たい態度」
と、ものすごいパワーで迫ってくる「干渉バリバリ」の
母親の存在が、苦しくてしょうがなくなりました。

「長男だ」と親戚中に連絡しまくって、弟の誕生に
大喜びだったはずの父なのに、しばらくすると予想どおり
(教師のくせに!)弟の教育にも「干渉なし、関心なし」
で、私が独りだったときよりも、いっしょに遊んでくれる
ことは多少増えましたが、基本はかわりませんでしたし、
遊んでいるときに小さな弟が間違って、父の顔を叩いて
しまったり、お腹を蹴ってしまったりしたときも、
(小さい子だから、しょうがのないことなのに!)
弟を大音量で怒鳴りつけ、長い間じっと弟を「睨みつけ」
ていました。今考えても、涙が出ます。

小さくて、思いやりのある、大好きだった
かわいい弟も、そんな両親に育てられる中で、
だんだんと変わっていきました。

幼稚園に入る頃になると、発作がはじまったかのように
怒りにまかせて、ひたすら「壁中を蹴り、破壊」するよう
になってしまいました。
本当はよく自分のことを話す、無垢で正直な男の子
だったのに、気がつくと無口で乱暴な、そして
異常なほど「恐怖」に怯えるようになった弟。

やがて、家中の引き戸という引き戸や障子が
穴だらけになり、120㎡という広い家の中で
弟の怒りで開いた穴のない引き戸を見つけるのが
難しいくらいに、家中に弟の「声にならない叫び声」
が充満していました。本当に、かわいそうでした。

そして、私が10歳になると、懲りない両親に
またひとり子供ができます。それが妹 でした。

私は4歳しか離れていなかった小さな弟を
父から守ることができず、それの責任を勝手に
背負い込み、「妹のことだけでも、守らなきゃ!」
と、意気込んで妹の面倒をみるようになっていました。
今考えると、ものすごく「異常」な状態ですね。
でも、10歳の私は必死だったんです。

弟の声にならない苦しみが、側にいた私には痛いほど
わかっていました。でも、自分が無力で、どうにもできなかった。

心の底から「どうして?」「なんで大事にしてくれないの?」
って叫んでも、叫んでも、改善しない状況に子供ながら、
絶望していたのだと思います。だからこそ、妹を守りたかった。
弟の分まで、自分なりに妹を守って、大切にしたかったのだと
思います 。
なんだか思い出して、泣けてきました。


そんな中、現実逃避が必要になってきた私は、
小さい頃から憧れだった芸術の世界に足を踏み入れる
ことになります。それが数年後に私と家族を「渡欧」に
向かわせることになるとは知らず、ただただ「好き」
という理由で、その世界に入り込んでいきました。

私の小さな「夢」は、やがて家族の未来を大きく
変えることになります。文字通り「地獄」 からの脱出です。


 『もうダメだと絶望したとき、そこに一筋の光が射す』


これは私の友人の亡くなったおばあちゃんが、
毎日のように口にしていた言葉だそうです。

この言葉通り、地獄のような絶望的な家庭環境にも、
やがてひとつの終止符がうたれます。
母は離婚し、私は念願だったヨーロッパへ、父を除く
家族4人で移住することになります。

・・・・ ・・・・ ・・・・

またもや長文になってしまいました
今回はこの辺にしますね。
続きはまた明日にでも書きますので、
「毒母からの解放」(vol.6)をお楽しみに。

今日もご一読くださり、ありがとうございました

引き続き、さーちゃんの「双極性障害になったブログ」を
よろしくお願いします。

 ・・・・・

【ツイッターもやってます→】https://twitter.com/home

【ユーチューブはこちら→】https://t.co/IClzcGXkcu?amp=1

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?