小説『舞台』
生身の人間が恐ろしい。
俺は生身の人間をきちんと認識することができないのかもしれない。
劇場から逃げるようにして、俺は駅に向かった。
雪が降りそうなくらい寒い夜。
劇場が暑すぎたから、汗が冷えて余計に堪える。
ホテルを出た後と、同じ感覚だ。
とにかく駄目だった。
そういえば、劇場の多いこの街も嫌いだった。
ろくな思い出がない。
最後に来たのは、マッチングアプリで盛り上がった女と焼肉を食べた時だった。
夜6時に約束して、バツイチだという話で気まずくなって、8時半に解散した時以来だ。
滅入ってしまって、そのまま名画座に入った記憶がある。
映画の何が良いって、結局のところ、あれは光を見ているにすぎない。
舞台上には誰もいない。
誰もいないのに、そこに映し出されたものに、心を動かされるのだ。
舞台は、ナマモノだと言う。
毎回異なるから、同じ演目を何度も見に行く客がいる。
例え同じ役者だとしても、そこに再現性はない。
だが、俺が言っているのは、そういうことではない。
もうとにかく、帰りたかった。
来た時と、全く同じ電車を使って帰った。
俺は行きに感じていた高揚を思い出した。
最悪だ。
この感覚は、そう、初めて会った相手とうまく行かなかった時の感覚に似ている。
金を払わされた上に、心が満たされない、あの感覚だ。
なぜ、そんな「期待」をしていたのだろう?
……行きの電車は空いていた。
途中駅で、勢いよく車両のドアを開けて入って来た男がいた。
男は網棚の上に読み終えたスポーツ新聞を捨てて、また隣の車両に移って行った。
酷いガニ股で、俺はそいつがひとり足ピンイキをして無様に果てる様子を想像していた。
その時、なぜそんな極端な想像をしたのか分からない。
網棚の上にゴミを捨てるそのささやかな傍若無人な態度が、俺にみみっちい復讐をさせたのかもしれない。
マスターベーションしか出来ない男だと。
その時、俺は舞台を楽しみにしていた。
今回の舞台の主宰に敬慕の念さえ、抱いていた。
一晩が約束されていた女と会う時くらい、浮かれていたのだ。
だから俺はそんな、その男に対して、人間として上から目線で、見下したのだ。
俺は女とうまくやれる、そう思い込んでいたから。
舞台は素晴らしかった。
笑いあり涙あり、ほぼ満員で、終演後には物販に列ができていた。
俺は最初、なぜ楽しいとか嬉しいとかではない、明らかに荒涼とした感覚を抱いたのか分からなかった。
カーテンコールで役者が挨拶をしている間から、劇場の階段を降りて外に出るまで、その舞台の体験は名状しがたいものだった。
ビルの入り口に、ホームレスが座っていた。
ガラスの入り口にもたれ掛かって座るその様は、見るだにこちらの体温も下がりそうだった。
「外は寒いと思うので、お気をつけてお帰りください……」
舞台挨拶の時の、主宰者の声がこだました。
俺は、裏切られた、と感じていたのだ!
シナリオの良さは分かる。
人気があるのも分かる。
奇抜さと一般ウケ、基礎と個性、そんなものを気にするのは評論家の仕事だ。
俺がそんなことを思っても仕方ないのに、そんなことしか考えられなかった。
しまいには、その「上手さ」こそ、主宰の社会的成功の裏付けだと当て付けがましく考えたりした。
客席から主宰の結婚指輪が光ったのを思い出す。
あれは小道具じゃない……
俺はその演目から、何も感じられなかった。
何も感じなかったのだ。
およそ人間らしい交歓はなかった。
観客席から離れたところに俺はいた。
舞台は人間が演じている。
俺はその人間に一方的に期待して、一方的に振られたのだ。
相手は、そこに生きているだけなのに。
どんなにつまらない映画でも、こんな気持ちにはならない。
映画は、俺の心を裏切らない。
俺は映画に期待してない。
なぜって、映画が俺を好きなんてことはないのだ。
話がつまらない、役者が大根、そんなことはあるかもしれない。
かといって、映画は映画だ。
スクリーンに映し出された光。
俺は光を見たい。
我儘な俺の欲望は一体何を期待していたのか。
役者が俺を愛してくれるとでも?
舞台とヤレるとでも?
俺は、人と交わることができない。
そう思い込まされた。また。
ひとりで居すぎるからだ。
足ピンオナニーのしすぎだからだ。
俺はあの新聞を捨てた男に、数時間先の己を見ようとしていたのだ。
結局のところ、絶頂を迎えることさえ、できなかった。
彼を見下した、自業自得だ。
「今回は合わなかっただけ」と何度割り切ればいいのかもう分からない。
再現性がないから、その場でうまくやるしかない。
この世は舞台……そんなことを言う奴は、他人を巻き込んで何かをやらかす快感に、溺れているんだ。
ああ、今はとにかく、光が恋しい。
誰もいない、無人の光が。
目の前に人がいたところで、結局いつも、相手には俺が見えていないのだから。
あなたの感じたことって何物にも代えがたいよね、ってことを一人ひとりに伝えたい。感情をおろそかにしたくない。って気持ちでnote書いてます。感性ひろげよう。