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一生一度の読書体験

自分の周りの景色がぐわんと回って真っ白になり、頭の中がしびれるような読書体験をしたことがある。

と言っても、内容に感動したとか、人生が一変したとか、そういう話では全くない。

もうずいぶん前のことだ。ある短編小説を、何の予備知識もなく、「全く知らないお話」として読んでいたのだ。古代中国が舞台の、60ページにも満たない歴史小説。貧しさと家族の愛情の乏しさに苦しむ小さな少年が大人になり、死ぬまでを淡々と描く小品だ。

読み進んでも歴史の靄の向こう、神話と紙一重の素朴な世界が広がり、国すらまだ無い。族単位で人々は動く。少年の一生も、書く気になればドラマチックな出来事がたくさんあるのだが、淡々とつづられるだけだ。そして主人公は大人になり年老いて死ぬ。

私はそこまで古い時代の小説を読んだことはなかったし、単純素朴な古代の世界に魅せられていた。それだけでも充分満足だった、最後の一行を読むまで。

最後のたった一行によって、私はその主人公が「私の知っている人物」であることを知る。その、一瞬の認識の変容が、私にしびれるような驚きをもたらしたのだ。

全く知らない人物として一生を読んだその人が、私の知識の中にある人物と合致したとき、もやもやと漂っていた小説の内容と、私の周りの柔らかい景色さえもがぐわんと回った後、急激に知識として固まり、非常に大きな固い金属の鍵となり、世界の中心の鍵穴にカチッと音を立ててはまった感じ。「私が読んできたのは、あの人物の一生だったのか」と。次々に小説の様々な場面が私の知識と音を立てて合致していく。しばらくその驚きに頭の中が白いまま、じーんとしびれるような感覚だったのだ。

それは、一生に一度、何の予備知識もないまま最初にその小説を読んだ時にだけもたらされるものだ。

その、しびれるような驚きの感覚は鮮明に残っている。

小説の内容自体が感動的だとか、人生の指針になるとかでは全くない。しかし、その体験自体は、生涯忘れがたい、強い衝撃をもたらす体験だった。

今でもその小説は好きだ。本当に古い、文字さえ持たない古代中国の雰囲気が。そして、もう二度と味わえないけれど、あの感覚を呼び起こしてくれるから。

その作品の名前も、作者も、主人公の名前も書かない。
予断は不要。私の読んだ作品であなたが同じ体験をするとは限らないし、それはある日、突然、何の前触れもなくやってくるものだから。



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