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写真のレガシー

アサヒカメラが、休刊となる。
先日、「カメラマン」誌が休刊となったばかりだ。
写真誌が休刊となる背景の実態は、写真の形態の変化だ。

日本では、写真を「美術品」「芸術品」とする文化が廃れたのだ、と思う。
「美術品」「芸術品」は、「非日常」だ。
流行り、廃れ、これは、どの「世界」でも同様に発生する。「写真」も、あるフェーズが終わったと見るべきなのだろう。
「写真」が、形を変え、「日常」になったために、特別視をしなくなったのだろう。…日本では。

今、写真の在り方は、微妙だ。
私の考える写真は、事実視界の延長線上だ。
目に見える「世界」を構図とカメラのシャッタースピード、絞り、感度の調整を通して、「非日常」として見せるのが、「写真」だと考えている。

生産性を伴う分野で発達してきた「写真加工技術」が、デジタルを介し、世間一般でも手軽に使えるようになり、「写真」の形態は、変わったのだと思う。
必要以上に時間と手間をかけて撮ることが減ったのだ。

また、人が求める「写真」の形態も変わったのだと思う。
スマホで撮れる「映える」写真、過度なHDR写真などが、「キレイ」とされることが、「世間」で多くなった。
それらは、「日常」の見え方の変化だ。
「加工」「共有」をすることで、「非日常」となる。
「美術品」「芸術品」に近くなるのだ。

「便利そう」なものが、商品として売れるのは、ごく自然なこと。
カメラが、デジタル化され、世間に認識されることで、Lr や Ps も世間に認識されるのもごく自然なこと。
ただ、「道具」というものは、「使い方」がある。それを間違ってはいけない。

「便利な道具」は、未熟を補うものでもあるが、未熟は未熟のままとなるかもしれない。

不変の真実は、未熟では、手に入れられない。

先日、久しぶりに、撮影に出かけた。
同じ場所に、一週間ほど続けて出かけた。
半径50mの範囲を、早朝から陽が高くなりかけるまで撮った。
雨の日は、大好きで、光が柔らかいので、昼近く、SDカードが枯れるまで、動画も含めて、撮った。
疲れるが、「思った1枚」の充足感には、代えがたい。

このような撮り方は、「レガシー」になってゆくのだろう。
写真誌という「レガシー」が、ひとつ、またひとつと、姿を消してゆくのも然りなのか。

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