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論文に限りなく近い体裁の文章は、どこまで読まれるのか(noteをはじめるにあたって)

 はじめて一編の記事を投稿してから、3日が経った。閲覧数を見ると、じっくりと読まれているのかどうかは抜きにして、それなりに人々の目にさらされるようだ。著者の情報もきわめて限られている中で、この記事を開いてくれた方々には、感謝したい。

 最初に、自己紹介しておく必要があるだろう。ニックネームに使っている「恩田重直」は本名である。紹介文にも書いた通り、これまで調査研究に勤しんできた。専門分野を硬い書き方で書くと、「工学」の中の「建築学」、その中の「建築史学」、その中の「アジア建築史・都市史」となる。著述家の足元にも及ばないが、論文をはじめ、雑誌などにも寄稿してきたし、中国語の書籍を翻訳したこともある。

 この半生を振り返ってみると、様々な物事が電子化してきたという意味で、情報化社会への転換期を生きてきているように思う。こうした状況下において、自分の中で、なかなか電子化に移行できなかったものの一つが、執筆活動である。もちろん執筆自体は、PC上でワードプロセッサを使って行っており、早くから電子化はしている。しかし、執筆したものを、情報化社会の申し子ともいうべきウェブサイト上に、自らの意思では掲載してこなかったのである。

 かつて寄稿した雑誌の大半が、廃刊へと追い込まれたのと逆行し、個人が文章を発表できる場は増えた。この「note」もまた、その場所の一つである。これまで、わずかではあったとはいえ、稿料が発生する書き手として、下手に電子化以前の雑誌の世界を知っていたこともあり、ウェブサイトに論文等を掲載するなどという行為に、全く関心を示さなかった。加えて、学術界においては業績に数えられないということも影響しているかもしれない(もちろん、研究成果を社会に公表するという点で、ウェブサイトに研究成果を掲載することは評価されるが、そこに論文を掲載したところで、論文数に数えられるわけではない)。

 しかし、出版不況が顕著に示しているように、もはや紙媒体にしがみついている理由は皆無であると思われる。なので、これまでの考えを改め、書いたものを積極的にウェブサイトで発表していこうと思ったのが、note開設のきっかけである。

 翻って考えてみると、ウェブサイトは論文の体裁に適した媒体であることに気づく。論文が読みにくいと思っている人は、相当いると思う。その根本的な理由は、専門用語の多用であったり、表現の硬さであったりに由来すると思われれるが、注釈の存在も、その要因の一つであろう。注釈とは、語句や文章の意味を解説したり、補足説明したりするもので、本文中に番号をはじめとした記号を振り、頁末や章末、巻末などにその記号を並べ、そこに列記されたものである。具体的な内容としては、参考にした文献や引用元の文献の書誌情報が記されたり、本文中には書き切れない情報であったりが記述される。したがって、精読しようものなら、本文と注釈との間を行ったり来たりさせられることになり、中々読み進められないことも、しばしばである。

 ところで、インターネット空間の特質の一つに、ハイパーリンクなるものがある。ハイパーリンクとは、インターネット空間における住所であるURL(Uniform resource locator)が付された文字や画像をクリックすることで、その住所にある情報を瞬時に表示することができる仕組みのことを指す。そう、誰もがPCやスマートフォンに向かって、日々行っている行為である。この仕組を利用すれば、上述した注釈の煩わしさが、少しは解消されるのではないか、と考えた。つまり、本文中に付された番号をクリックすると、瞬時にその注釈が見られ、さらにはその情報源にすぐさまたどり着けるといった具合に。これに気づいた時、にわかに創作意欲に駆られた。

 また、折柄の出版不況も、少なからず関係している。例え、論文として学会誌などに発表したとしても、その読者は非常に限られているわけで、研究成果は、書籍として刊行することが求められる。とはいえ、ただでさえ読み手の少ない、論文を基礎にしたような研究書は、このご時世、出版することが難しい。それでも、出版にこぎつけている研究書の多くは、出版助成をはじめとした補助金を得ている。つまり、出版社側からすれば、補助金でもない限り、研究書の出版は採算の目途が立たないことを意味する。まあ、補助金をもらって自費出版するようなものだ。中には、補助金ありきで出版の話を持ち込んでくる出版社もある。こうした状況には、違和感を感じざるを得ない。読まれない書籍を出版する意味がどこにあるのか、と。

 確かに、後進の研究者にとってみれば、先達の研究が書籍になっているのは、非常に有難い。しかし、それは単に、研究という非常に狭い世界だけでしか、価値をもたないのだろうか。どんな研究であれ、現状の社会なり、生活なりを変える可能性を秘めている、と思っている。そう考えれば、多くの人に自身の研究を共有できるような仕組を構築するのは、研究者の役割の一つだ。そうした中で、著述が果たす役割は、比較的大きいはずである。ここに至って、投稿にお金もいらず、それでいて見ようと思えば、誰でもが見られるウェブサイトは、研究者にとってはうってつけの執筆の場であることに気づき、筆力を試さずにはいられなくなった。

 以上が、執筆に駆り立てられた理由である。ここで、想定している書き方にも触れておく必要があるだろう。

 この場では、論文の体裁に限りなく近いものが、一般の読者に、どこまで読まれるのか、試してみたい。なので、基本的に論文の体裁で、書く。しかし、ここで、一つの問題が生じる。上述したような注釈の仕組、つまり注釈の文章を表示し、さらにその注釈に書かれている参考にしたウェブページなどに辿り着けるリンクを、読者が必要に応じて開くことができるような仕組を、note上では構築できないということである。したがって、文章の全体は、外部のウェブページに依存することになる。noteには、冒頭の一部を掲載し、「続きはこちらで」といったリンクを張ることになるだろう。すでに、掲載している記事が、このようなかたちになっているのは、このためである。ある意味、タイトルと冒頭の数百字で、読者の心をつかめるのか、という試みでもある。

注釈+

【図1】注釈の表示にこだわってつくられたウェブページ(左側の本文にある※1をクリックすると、右側の画面が開く)

 論文の体裁、とりわけ注釈をつけるということには、こだわりがある。一つは、記事に信憑性をもたせたいということ。もう一つは、読者が疑義を感じた時に、参照したものをすぐに確認できるようにするためである。電子化された資料がある場合には、その場で誰もが検証できることになる。

 このような方針で、noteに書いていく所存である。そうはいっても、本格的な論文調で、硬い言葉で塗り固めても、決して読まれるものにはならないだろう。なので、目指すところは、雑誌でいえば『文藝春秋』、書籍でいえば新書、といった感じになろうか。つまるところ、読みやすく、それでいて、骨太な内容となるようにしたいのである。

 まずは、多くの人に目に留まることを期待して、ひとまず筆を擱くことにしたい。

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