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潜入調査の方法(書評:ナンシー関『信仰の現場:すっとこどっこいにヨロシク』角川書店1994.7[文庫版:角川書店1997.6])

 捧腹絶倒の一冊である。

 そんなわけだから、何を書いても本書の魅力を半減、いな、それ以下にさせてしまいそうで、書評なんて書く気が失せる。できることなら筆を執りたくない。が、本書には、現地調査のいろはが詰まりに詰まっているだけに、筆ならぬ、鍵盤を叩かずにはいられなかった。

 著者であるナンシー関との出会いは、『週刊文春』だったように思う。彼女の経歴を振り返ってみれば、『ホットドッグ・プレス』などで、目にしていたのかもしれない。が、印象に残っていない。『週刊文春』での連載は、『週刊文春』を手にした暁には、必ず目を通していたように思うが、より鮮明な記憶は、夜な夜な、消しゴムを彫り彫り、コラムを書き書きしているのかぁ、そんな程度だった。そこに、たまにテレビで見る風貌を重ね合わせ、そりゃあ太ちゃうよなとも思っていた。総じて、こたつがよく似合う作家ってところだろうか。まさか、本書の根幹になっている「現場」潜入を軽快にこなし、その成果を臨場感あふれる筆致で、しかも面白おかしく社会風刺を盛り込みながら書いていたなんて、夢想だにしなかった。

 筆者は、本書の編集担当者でもなければ、ましてや版元に勤めているわけでもない。なので、本書が売れようが、売れまいが知ったこっちゃない。だが、たまたま、この書評に目が留まった人と、この読書体験を分かち合いたいという一心で、未読の読者が本書を手にすることを願って、補足することがあるとすれば、それはただ一点。タイトルである「信仰の現場」に託された意味である。

 なぜなら、このタイトルから神社なり、寺院なり、教会なりといった、れっきとした宗教施設に潜入したのか、と勘繰ってしまうことが予想されるからだ。本書でいう「信仰の現場」とは、何かに夢中になっている人たちが集う場所のことで、宗教施設ではない。今風に書けば、「萌え」が集う現場のことである。近年、アニメや漫画の舞台となった場所を聖地と見立て、そこに訪れることを聖地巡礼というが、そんな言葉の用法も登場してなかった、かれこれ30年ほど前に、こうした現象が起きている場所をめざとく見つけ出し、潜入調査を行っているのである。この先見性には、感服するしかない。

 さて、この書評を書かずにいられなかった最大の理由、潜入調査の方法という点について、言及しよう。潜入調査と聞くと綿密な準備や計画を伴う、何か特別な調査に感じてしまう。が、著者が実施した潜入調査は、誰しもが今すぐ実践できる現場観察であり、現地調査である。もちろん、子細な準備は必要だ。しかし、そこで求められるのは、現場の取材許可をもらったり、取材対象への面会の約束をとりつけたりということではない。重要なのは、たくましい創造力なのである。

 ちなみに、本書のもととなる雑誌での連載が企画され、初期の潜入調査では、律儀に取材許可などの手続きを踏んだらしい。しかし、その後は「『取材は無許可ゲリラで』という方針を固めた」(p.44)という。その理由は、取材後に執筆した原稿が「チェックの嵐に会」ったことによる。つまり、正面切って取材申込をすることが、必ずしも見たままの真実を伝えることにはならないのである。

 本書は、一話完結の体裁をとっており、著者は一話ごとに「萌え」が起きていそうな現象に思いをめぐらせることからはじまる。そこにあるのは、報道や各種記事、あるいは日々の体験などから得られた社会現象の断片を通じて導き出される、創造力豊かな仮説である。目次に並ぶ小見出しは、そうした仮説を端緒として、著者が見出した「萌え」現象ということになる。そもそも「萌え」なんて言葉が流通していなかった時代に、都合24の「萌え」現象が、著者によって掘り起こされたわけだ。

 現象を見定めたら、次は現場の選定となる。「永ちゃんライブ」「宝くじ抽選会」「ドッグショー」……。いずれの現場も、話には聞いたことはあっても、「萌え」を感じていない人が足を運んでいるとは思えない。そして何より、同じ現象であっても、選定する現場がぶっ飛んでいる。例えば、大学入試の合格発表。著者が選ぶのは「非一流大学」であり、しかも「2部(夜間)」なのだ。こたつに入り、テレビを眺めていても、報道されないであろう現場である。足を運ばない限り、知り得ないのだ。こうした現場選定の背景にも、報道や各種記事が伝えない社会に対する著者なりの仮説が見え隠れしている。その結果、当然、世間一般に伝えられれているものとは異なる社会の様相が、描き出されることになる。

 こうして足を運んだ現場では、著者の独特な眼差しが炸裂する。そこには、文化人類学者顔負けの観察力、データ分析官をしのぐ分析力がある。同じ現場で、調査会社や研究者などに、来場者の特性調査でも依頼しようものなら、科学を妄信するあまり、〇代女性×%、△代女性×%などと淡々と記述されるのが関の山だ。ところが、著者の手にかかると、「若い女性は、お嬢さんっぽい服装だけどお嬢さまではないという感じが典型か。ベージュのプリーツスカートとかはいてるんだけど枝毛だらけ」(p.70)となる。著者は、科学的裏付けとなるような調査はしていない。しかし、いずれが現場の雰囲気、臨場感、そして来場者の特徴を的確に伝えているかに思いを馳せれば、どちらに軍配が上がるのかは目に見えていよう。

 圧巻なのは、現場での調査にもとづき、当初の仮説を潔く変えられる勇気をもっていることである。新聞記者や研究者などの中には、これができない人が案外多い。つまり、見たことを見なかったことに、聞いたことを聞かなかったことにする輩が少なからずいるのである。なぜなら、調査前に構想していた筋書きを再構築しなければならないからだ。本書の中には、思い描いた仮説通りに調査が進められなかったものも、いくつかある。では、その記述が退屈かというと、そんなことはない。仮説が覆されたら覆されたで、それを素直に認め、当初は予想だにしなかった新たな発見を現場で発掘してくるからだ。現場での発見は、現地調査における最大の醍醐味である。

 ところで書評とは、一般的に読み終えてから書くものであろう。しかし、本書の書評は、読了とほぼ同時に書き終えてしまった。それは、本書が一話読み切りで雑誌に連載されたものを、まとめたものであることも関係している。が、それほどまでに、執筆意欲にかきたてられる一冊であった。そんな体験を通して、読前書評なんてのもありえるのかもしれない、とも思う。つまり、タイトル、帯、装丁、裏表紙に書かれたあらすじ、中身はせいぜい目次までで、中を全く読まずに書評を書くのである。気が向いたら試してみたい。

 さてさて、本書は、非常に読みやすい文体にもかかわらず、一文一文に腹を抱え笑い、読み進めるのがままならなかった。後先にも、こんな本に出会える機会は、そうないだろう。ここまでお付き合いくださったみなさん、こんな陳腐な書評を読んでいるいとまがあるなら、すぐさまアマゾンかなんかで、ぽちってはいかが。

※本稿は、合同会社Fieldworkerが運営するウェブサイト「Fieldworker's Eyes」に寄稿したものの転載です。


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