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Cafe SARI . 9 「 芳しき孤独 」

ゴールデンウイークも終わり、日常が帰ってきた。

CafeSARI にも休み明けの溜まった仕事を終えた大人たちが久しぶりに顔を見せてくれる。

矢島早苗。51才。仕事は化粧品メーカーのマーケティング部で部長職に就いている。アラフィフにはとても見えないその麗しい容姿に、彼女なりの仕事へのプライドと自信が垣間見える。いくら遅い時間に現れても、早苗に化粧崩れや肌のくすみを見たことがない。沙璃はあまり美容に時間や手間をかけない自分との差を少々引け目に感じつつ、いつも完璧な美しさを保つ年上の早苗をこっそりと崇拝している。

店に入ってきた早苗はオープントゥのエナメルのハイヒールを軽やかにコツコツと鳴らしながら、真っ直ぐにカウンターの真ん中の席に着いた。真っ白の麻のスーツが目に眩しい。大ぶりのシルバーのループピアスとバングルがクールなスタイルにアクセントを添えている。素材やカラーなどで初夏を先取りする着こなしも流石だ。

「こんばんは。沙璃さん、ビールいただける?」

「お疲れ様です、早苗さん。今夜は遅かったですね」

「休み明けは仕事が溜まって大変なのよ。これでも途中で諦めて切り上げてきたの」

「そうですか、早苗さん、いつもお忙しいですね」

早苗の目の前にお気に入りのクラフトビールを差し出すと、美しいパールホワイトのネイルの指先で、まるで羽でも摘み上げるかのように優雅な仕草でグラスを持ち上げた。そしてその形の良い、鮮やかな赤に彩られた唇にゆっくりと運んだ。

コクコクと美味しそうにビールを飲むと、嬉しそうにニッコリと微笑んで首を傾げ、目を細める。早苗のいつもの表情だ。沙璃はうっとりと見つめる。

「はぁ、美味しい。この一杯を味わうために、私は今日も一生懸命働きました」

うふふと悪戯っぽく笑うと、目尻に薄く年齢なりの皺が入る。それさえもなぜか女らしく、キュートで艶やかに見えるから、人の目というのは不思議なものだ。

若ければ若いほど、肌も髪もハリや艶があり、誰の目にも美しいのは当然のこと。若さのピークは二十歳で、そこからはどう足掻いても自然の摂理と重力には逆らえない。しかし稀に、早苗のように若さだけでは太刀打ちできない美を保ち続けている人もいる。一体どんな工夫や努力を重ねているのか聞いてみたい気もするが、聞いたところできっと同じようには時間もお金もかけられないと分かっている。もしもできたところでその先にはどんな素敵なことが待っているのだろう。何もなかったら、一体なんのためにそんな手間暇をかけるのだろう。考えてみると自分には必要ないかもしれないと、沙璃はテレビの画面や美容雑誌の誌面を見るような視線で、自分とは違う世界観の人という認識で早苗のことを見ていた。


「ねぇ沙璃さん、あなた、肌に良いこと何かやってる?」

ドキッ!そうきたか。ほとんどスッピンの沙璃は、誤魔化しようのない自分の肌を間近で見つめる早苗の視線を痛いほど感じながら、苦笑いをするしかなかった。

「いえ、何も。何かやらなきゃいけないのは分かってるんですけど。どうも私、無精でダメなんです。美容にかける時間があるなら、本を読みたくて……」

「それは良いことだと思うわよ。何が自分にとって一番大切か、癒しになるか、それは人それぞれで違うのは当然だもの」

早苗の言葉を聞いて、沙璃は思いついたように話し始めた。

「あ、何が一番大切かを考えると……そうだな、ストレスを溜めないことかな。自分がしたくない事や我慢は極力避けてます。仕事もプライベートも、なるべく好きなことだけしていたいので」

早苗の目が輝いた。

「じゃあ、その “好きなこと” をするときに、何か決まって必要なものってある?」

「必要なもの?」

「そう、例えば家で好きな本を読むときに、その時間をもっと楽しんだり、深く味わうための工夫とか。何かしてる?」

沙璃は普段の自分の部屋の中を思い浮かべた。

今、ここで流れているビル・エヴァンスは家でもヘビロテしている。特にこのナンバーはお気に入りで何度聞いても色褪せない。大好きな曲だ。


ゆっくりと過ごす午後、BGMはサブスクのジャズは欠かせない。そして好みの香りのコーヒーやハーブティー、時にはアロマキャンドルやお香を焚く時もある。香りはリラックスするには必須だ。

「好きな音楽と、香り、かな」

「なるほど。その空間自体を自分好みにアレンジするってことね。大切だわ」

「もしかして、マーケティング調査?新製品かプロモーションの企画ですか?」

「あぁ、ごめんなさい。もう、これだからダメなのよね、私は。さっき仕事を切り上げてきたって言ったのに。ここでもまだやってるww」

「ほんとに好きなんですねぇ、早苗さんは。お仕事が」

「そ。だから今日もひとりなワケよ」


確か早苗さんにはパートナーがいたはずだ。ここにも何度か二人で来てくれたことがある。沙璃はてっきり二人は夫婦なのかと思い込んでいた。長年連れ添ったようにリラックスした、仲睦まじい様子がとても印象的だった。早苗さんの年齢層で、夫婦でバーへ来るという客は珍しいから目立っていたのだ。何故なら、働き盛りの夫婦の場合、仕事時間もそれぞれ遅くなることもあり、家で食事を済ませたら、それから二人でわざわざ出かけるというのは結構大義なことだったりする。そんな中、時々二人は仕事帰りに時間を合わせて来てくれる。非日常を味わうためでもあるバーに、日常を持ち込みがちな夫婦でやってくるケースは結構稀なのだ。

沙璃は思い切って聞いてみた。

「早苗さんがいつも一緒にいらしている方はご主人様かと思っていました」

「あぁ、彼ね。まぁ、、、ご主人様といえばそうなんだけれど」

「え? じゃあやはりそうだったんですね。とても仲良くて、いつも素敵だなって思いながら見ていたので」

「うちはちょっと変わってるの。少し前に流行った『週末婚』ってやつよ。私、ダメなのよ。普段はうちでもずっと仕事のことが頭から離れなくてね。何かしら考えていたり、思いついたら時間に関係なくPCから離れなくなったりするから。そうすると家事なんてできないし食事もどうでもよくなっちゃうの。そんな私に彼はとても理解があってね、料理は得意で他の家事も私より上手だし、一人でも全く問題ない人なの。二人でよく話し合って、お互いに気持ちよく、ストレスなく過ごすために、週末だけ一緒にいることにしたの。だからここへは普段は一人。金曜の夜にだけ二人で来るのよ」


なるほど。そういえば今日のようにウイークデーはいつも早苗さんは一人でやって来る。

「そうなんだ。いいなぁ、お互いの仕事とプライベートを尊重し合って、ストレスなくいい時間だけを共有してるんですね。理想だなぁ」

「まあね。でもお金はかかるわよ。二世帯に分かれると必要経費も倍だからww でもうちは子供もいないし、残す必要がないからね。自分たちの人生を思うように有意義に過ごそうって、二人で決めたの」

「本当に、理想ですね。私は結婚は失敗したので……。そんなふうに臨機応変な考えを持てば良かったのかな。週末婚なんて、思いつきもしませんでした。それに、私は仕事もしてなかったから、離れていると寂しくてダメだったと思います」

「今は?離婚して一人になって寂しい?」

沙璃は改めて今の自分を振り返った。この CafeSARI を始めてからたくさんの人と関わり合うようになっていろんな人生を見てきた。毎日が楽しく、生活の中に自然と仕事が馴染んでいる。だからストレスが無い。「これが仕事」という観念もあまり無い。家に帰って一人の時間を、好きなことをして楽しむというのもとても自然なことで、それが一人だからといって「寂しい」という感覚になったことは無い。何故だろう。考えてみたら、結婚していた時の方が夫との精神的な距離に寂しさを感じることはたくさんあった。今よりもっと、孤独を感じていたかもしれない。

「今は全く寂しくないです。不思議ですけれど」

「そっか。それなら良かったわ。沙璃さんこそ、本当にこの仕事が好きなのね」

「そうかもしれません。早苗さんは? 普段、ご主人と離れている時、寂しくないですか?」

早苗は考え込むように天井を見上げて唸った。くるくると表情が変わって話していても楽しい。思うことは言葉に出すタイプの早苗は、いつも表情豊かで話す相手を魅了する。こういう人のことを「華がある」というのだな。沙璃は外見の美しさだけではない早苗の魅力に引き込まれていた。

「寂しいわよ。本当はいつも一緒にいたいと思ってるもの。でもね、離れていないと私、彼にベッタリ甘えちゃうのが分かってるから、そうしたくなくて。一人で孤独だからこそ、強くいられるってことあるのよ。私の場合、依存するとロクなことがないの。自分の考えが定まらないし、なんでも彼の言葉に乗っかって『それでいいわ』になっちゃう。でも後で必ず後悔するの。なんであの時はっきりと自分の言葉で言えなかったんだろうって」


確かに、沙璃にも思い当たるフシがあった。結婚していた時は相手の意見や好みに合わせるのがデフォルトだった。というか、考えることを放棄していた。物事を上手く行かせるために、なんとなく自分の気持ちを封印していた。だからいつもどこか他人事で、一緒にいても物寂しさを抱えていたように思う。

今は一人だ。一人だからこそ、たくさんのことを日々考える。考えて言葉に出して実行する。人生がやっと「自分ごと」になった気がしている。それは確かに孤独なことかもしれないけれど、自分軸はしっかりと太くなって、地に足がついた感覚がある。孤独だからこそ、強くなったし強くいられる。そしてそれは沙璃にとっては決して寂しいことではないと思えた。


二人でいても寂しいと感じることは、きっと一人でいるよりずっと寂しい。寂しさの正体は一体なんなのだろう。沙璃は早苗に訪ねた。

「早苗さんが、寂しいと分かっていても孤独を選んだのは何故ですか?ご主人に甘えないため?」

「そうね、夫婦であっても一人ずつの、それぞれの人生を大切にしたかったから。いつか人は必ず死ぬわ。残された時、しっかりと自分の足で立つには、まずは自分の人生を大事に、思うように生き抜くことが必要だと思ったの。そして相手より先に死ぬ時は、私がいなくても彼にしっかりと自分の人生を最期まで一人で生き抜いてほしいと思ったからよ」

孤独や寂しさの裏にある愛情。自分も相手も、共に大事にすることを早苗さんは早苗さんのやり方で実行している。沙璃は早苗の言葉に深い愛情を感じた。

夫婦の形はそれぞれだ。当たり前にいつも一緒にいて、お互いを頼り合い、甘え合い、依存しあって上手くいく夫婦もたくさんいるだろう。そうして最後まで幸せに添い遂げられたらこんな幸せなことはない。愛情の示し方もそれぞれでいいのだ。どれだけ相手を想っているかは、一人一人の心の中でのこと。共通のスケールなどどこにも存在しない。


「そういえば、私何も食べてないのよ。今日はお昼も時間なくて。ねぇ沙璃さん、何か作って!」

「はい、じゃあ美容と健康のために、タンパク質たっぷりで脂肪控えめの蒸し鶏のサラダにしましょうか」

「それ、サイコーね!ワインはアルザスのリースリングにしようかしら」

「蒸し鶏にピッタリ合いますね。はい、ただいま!」


一人であっても二人でも。自分の人生を歩むのは自分しかいないのだ。何を一番大事にしたいか、何が好きか、何が嫌いか。いつも自らに問いかけながら、これからもしっかりと歩いて行こうと沙璃は心に誓った。

帰ったら一人の部屋でディプティックのアロマキャンドルに火をつけて小説の続きを書こう。今夜はどんなストーリーにしようかな。沙璃は早く“芳しい孤独“ に浸りたくて、うっとりと天井を見上げた。



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