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私たちが神であるという仮説

ふと、わかってしまったような感覚を覚えたのでここに記しておきます。

私たちは自分の人生の中に神様という存在を確信が有る無いに関わらず置いています。

思ったように人生がうまく行かない。
予想もしないような悲劇が起こる。
嬉しいことが起きた時に神様ありがとうってつい思ってみる。。。

「私」という人生の役者がどんな想いで何をしようと、神様は全てお見通しというけれど、神様は本当に私をみているのか?

でも実は、全てを見届けている人は他に一人確実にいる。
それは「私」。

そう。
信号を無視した時、側に誰もいなかったのになぜか少し罪悪感が湧いた。

全てを見ているのが私だとしたら、私は神様のようなものなのではないか?
こっそり赤信号を渡ったのも、嘘をついて誘いを断ったのも、私しか知らない。

でもその時の罪悪感がしっかり中に残っていて。
どこかでそれが具現化して形を変えて現れる。
それが現実化されるということ。

ポジティブなことだって同じ。
一瞬目を合わせた時にとても嬉しかった。
小さなありがとうにキュンと来た。
この世界って素敵だ。
・・・それがまた現実化される。

私たちが神様かどうかはわからなくても、私たちは自分の事は全て見ている。
神様が罰を与えなくても、やってしまった瞬間に罪悪感という形でまずは罰を受けているし、それでも気がすまないときはそれ以上のしっぺ返しがきたりする。
でも、そんな自分を責め過ぎず、他の人と同じように上手に許すことが出来たら、それ以上辛いことは起きない。

なので「私たちが神であるという仮説」は近からず遠からずではないかな?って思うのです。

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