過去は原因になり得ないと気づくことが癒し・奇跡を可能にする。過去にあると信じている「もつれ」を今解く

人生に現れるあらゆる娯楽より、あなたの内なる世界は興味深く、豊かだ。
誰かや何かに「楽しませてもらう」ことを求めなくても、あなたの中に比類なく面白い世界がある。
そんなあなたの意識を探求するために、道具はいらない、場所も関係ない。どこにいてもあなたの内的世界は広がっている。どんな状況も環境も、それをなくしてしまうことはできない。
こう考えると、愉快で、心強くなりはしないだろうか。これを知っていればあなたが孤独にうち震えることも、退屈に苦しむこともない。私たちに平等に「降りかかってくる」ように見える「時」すらも、楽しいデバイスだ。

「時」は学びには便利なツールであるが、使い方次第

「時」は、学びには便利なツールである。あなたも過去の経験を参照して、学んだことがあるだろう。

たとえば私の日常のひとコマに「コーヒーをドリップする」シーンがあるのだが、かつてコーヒーを好まず、自分でドリップする経験もなかった頃は、コーヒーの味の違いを知ろうとしなかったことはもちろん、会社のコーヒーマシーンで「コーヒーを作る係」が回ってきた折にも、予め指示された通りスプーンで量ったコーヒーの粉と水をセットするだけであった。マシーンの詳しい使用法はおろか、コーヒーの粉と湯量による味の違いなど考える余地もなく、興味が湧くことすらなかったのだ。

けれども自分が飲むようになってからは、コーヒーの種類やドリップの仕方、カフェオレにするときには牛乳の量や温度にも気を遣うようになった。味、おいしさが全然違ってくるからだ。すると毎回のコーヒーを淹れる時間は「楽しい学び」の機会にもなる。
こうするとこうなるのか、という体験の積み重ねで、好まない結果という「失敗」が生まれることも、好む結果を生むことのステップ、発見になる。

これがもし、言葉でただ「このように淹れなさい」「こうすると、こうなっちゃうからね」などと教えられたとしても、指示に従って機械的にそうするだけでは、自分で体験して学ぶインパクトは失われるし、面白みに欠けたり肝心のところが身につかなかったりするだろう。

そのように試行錯誤しながら学習できるのも「時」があるからで、自分自身の過去の体験を参照し、「今」と比較することができるからである。
つまり、「積み重ねていく」体験ができるのだ。

一方で、この「時」というものをあまりに「直線的に、一方方向に流れるもの」と信じすぎると、あなたの足を引っ張ることがある。
特に、あなたという個人にとっても世界にとっても、「癒し」という観点においてはこれが重要なポイントになる。
「時」があなたの内にある「もつれ」の維持に利用されると、あなたを部分的かつ本質的に、同じ状態に捕えてしまうのだ。

霊的に理解する「時」の仕組み。過去の経験を元に「今」を作り続ける罠

はじめに言っておこう。時は、一方方向に「流れて」はいない。
現代社会では「過去、現在、未来という順番に流れているかのように」体験されており、それが常識のようになっているが、そうではない。

ここから先は

2,026字

¥ 1,200

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?