フツーの話ができなくなっていく悩み

今回の話題は、私がスピリチュアリティーについて教える仕事をしているという背景を伝えて初めて意味が通る。
そんな私特有の悩みが、noteを開始して、しばらく過ぎた今ますます色濃く浮かび上がり、はっきりと直面せざるをえなくなっているのだ。

私の肩書きは、多くの人が聞いたことがあって、なんとなく理解もできるであろう「スピリチュアルカウンセラー」という呼び名を採用している。
これは、自分がもっとしっくり来る他の呼び名を作り出してみたところで、他者がその意味を把握できなければ呼称として役立たないので、こだわりを捨ててそうしている。
ただ、実際の活動は、個人で行うスピリチュアルカウンセリングのみが中心なわけではない。これまでたくさんの記事を書いてきたブログも、おおよそ月1くらいのペースで開催している講座も、活動の一環だった。
(noteを始めた経緯はプロフィールに設定した◆「新しい幕の、はじまり、はじまり~!」をどうぞ。)

そうした活動を長年していると、自分の「スピリチュアルなものの見方」も当然、強化されていく。あるテーマをさらに深めていき、教える立場にあるということは、まず自分が絶え間なく学びを継続していくということだ。
すると、おそらく、現在の地球の中で「マジョリティー」とされる人たちとは、かなり違った観点で日常から物事を見ている。

私個人の周りでも、私がそのままの私として話をしても通じる人と(親しい友人の全員がそれに該当する)、「一般仕様」を意識して言葉を選ばなければ、話自体が通じない人とがいる。それは、特にスピリチュアルな事柄について語るわけではなくてもだ。日常に現れる様々な出来事への反応や感想も、あえて合わせる意図を持たねば、世間一般的な見解とは違ってしまう。
(もちろん、何を世間一般と見なすかで、それも変わってくるのだけど。)

この差をひとつひとつ修正し、私が本当のところどう考えているかを説明し、百パーセント自身が「こう思っている」という内容を他者に伝えるには、言葉を多く必要とすることがある。

仕事上では、ブログ記事の蓄積をはじめ、今までの活動があるので、すでに私の伝えていることの土台や、世界観を理解している人たちが集まってくださることが多い。初めての方であっても、少なくともスピリチュアルな分野に興味を持っている方なのだ。
そんな「ホーム」を築いた私は、noteを始めながら「さじ加減」が少し難しいなぁと思っていた。もちろん自分自身の中での葛藤という意味でだ。完全に、自分の世界の延長でいくか。それともnoteという新しい場なのだから、初めて私の文に行き当たった人でも意味が通るよう工夫して書くか。

有料記事は、普遍の概念にしっかり基づきたいので、易しい言葉を選びつつも「これまで学んできた人が読んでも根本的な理解を強化でき、さらに先へ進める内容」を意識している。
その一方で、「入口」として親しみやすい内容もあった方がいいと感じて、ときどき無料で出す記事は個人のエピソードなど入れつつアレンジしていたのだった。が……、
その中の雑談的な部分ですら、「過去って別に現在に影響してないしなぁ」とか、「時間って同時にあるし」とか、「肉体って幻想だから、エネルギーの観点から説明しないと本当に書きたいことは伝わらないんだよな」とか、枚挙にいとまがなく私の真に思っていることと、書いていることとの二重性がポップアップしてきてしまう。いわば、「地球ではこう思われているので、こう書いておきますね!」という前提を駆使している認識があるのだ。

先述のように、この二重性は、元々日常からあるっちゃあるものだったが、こうして「ものを書く」という「主体的な表現活動」においては、一体私はどうしていこうかと思案してしまうのだ。完全に、自分の裁量でどうにでもできるからこそ。
雑談的な箇所でまで、スピリチュアルなものの見方を忠実に取り入れると、(毎回毎回その世界観への解説を入れることはできないし、)意味がわからないと感じる人が出てくる可能性はある。言い換えると、そこに気を遣っていた私はきっと「色んな人に幅広く読んでもらえる形も残そう」ということを自身に課していたのだろうと気づいた。

noteを始めた当初は先の計画があったわけではなく、「楽しく色々書けたらいいな」という思いだけだったが、今となっては私にとっての「楽しく色々書く」が、地球仕様のそれではなくなっているのでは? と自覚せざるをえないという「影」が差している。
いや、これは影ではなく光と呼んだ方が適切なくらいなのだが、「地球人の皮を引き続きかぶっておいた方が無難でしょ」と、未だ思える幻想がわずかでも残っていたために、こうした「悩み」が起きた。

今の私に切実に、様々な考えをそのまま書くことで、私は宇宙人まるだしになっていく。まだ地球で生きてるのに? 地球人は、地球人らしくしなければならないのでは……そんな思考が、私の袖を引っ張っていた。
(この感覚は、別なたとえを用いると、実は出家している人が出家を隠しているような状況だ。ちなみに「宇宙人」とは「物理的地球に限定されている人間」と思い込んでいる私たち全員の、本来の姿を指す。)

だけど、そろそろ答えを出さなければならない。
「フツーの話」もできる私という仮面は、必要なのだろうか。
かつての私は、他の考えの人との間に橋を架けたいと思っていて、そのために、その仮面を活用していたかった。必要だと思っていた。
しかし、近年は「Let Go」の大切さ、つまり人それぞれが、ありたいようにあることが一番よく、「共感や、わかり合うことの強制」は要らないのだという実感が深まっている。

フツーの話を地球人らしく語る私は、内心はスピリチュアルな見解一択しか持っておらず、人間社会ではフツーとされる見解もそれに伴う感情も、自分も「人間経験があるので」理解できるけれど、本当のところ、もはや共感はしていない。

その事実をオブラートにくるんで違ったものにする度、内でかすかなさざ波が起こる。
ひとつの私で生きるということは……答えは明らかだね。


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