追悼 志村けんさん

志村けんさんが他界された。

日々人が生まれ、死んでいくこの世界で、著名人の訃報もまた度々あるものだが、自分個人の人生に本当に一定のインパクトをもたらしていた方となるとそう多くない。2018年にさくらももこさんの訃報を聞いたとき以来の、「えっ」という何とも言えない思いが心に去来した。言葉で説明しづらい「えっ」。

それは、自分の現実を当たり前のように占めていた一部分が取り去られて、——パズル絵のピースがその部分なくなって、空いてしまったような思い。

私の人生には、ものごころついたときからずっと続いている温かい背景として、志村さんの存在があった。色々な思い出に、日常の延長に、志村さんの存在があった。

知ってる。自分の人生を構成している人々は、いつか去っていく、この世界では。私自身の人生の幕を閉じるのが先か、後になるか、それはわからないけれど。
けれどもやはり、そうした認識にも関わらず、呆然とする思いが湧いてきてしまうのだ。「今」それが起こるとはという気持ちで。

精一杯生き切った故人を引き止める気持ちなのではない。ただ、
「えっ、今日からは、志村けんさんのいない世界なの!?」
と戸惑う。
いつもと同じ時の流れを刻む日常が、よその顔をしている感覚がする。

志村けんさんの存在がもたらした数々の思い出

私はザ・ドリフターズの番組をリアルタイムで沢山見ていた世代ではなく、子どもの頃の人気番組といえば「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」「志村けんのだいじょぶだぁ」が思い浮かぶ。
いずれも当時は毎週放送されていて、どちらの番組も大好きだった。

「加トちゃんケンちゃん……」では、番組前半の、加藤茶と志村けんが探偵事務所をやっている設定のドラマに引き込まれた。ちょっと怖い話があったり、不思議な話があったりもして、ハラハラドキドキすることもあった。
それから、ドラマが終わると、おもしろビデオコーナー。
これは、後に私がアメリカに高校留学していた頃、アメリカのテレビ局(ABC)で「America's Funniest Home Videos」というアメリカ版の独立した番組になっていて驚いた。ホストファミリーも楽しみにしている、人気番組だった。
番組の最後にはちゃんと、「これは日本の『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』のアイディアが元になって生まれた番組です」という旨の断り書きが出ていたから、なんだか誇らしい気持ちになった。
私が留学していた当時はまだ、今のようなインターネットの普及による日本文化への関心や人気はアメリカに芽生えていなかった。特に田舎では日本についての興味を持つ人、知識がある人が極端に少なく、こんなところでお目にかかれる「加トケン」の影響は、予想外で嬉しかったものだ。国際郵便で友達に書き綴り、報告したことを覚えている。

「志村けんのだいじょぶだぁ」では、コントに出てくる様々なキャラクターを楽しんだことはもちろん、番組の最後の方で踊る「ウンジャラゲの歌」が楽しみだった。「げつようびはウンジャラゲ、かよぉーびはハンジャラゲ」のあれである。
いつからか、一般の人々の小グループがウンジャラゲの歌を踊っている姿を撮影して流すコーナーが番組内にできた。老若男女、全国の色んな人が踊る姿が放送され、私はそれにものすごく出たかった。
子どもだったから、どのようにその人たちが選ばれていたのか、応募方法があったのかどうだか詳細を覚えていないのだが、母に応募を頼むつもりで、いつか出られるのではと思い、いつも一緒に遊んでいた近所の子たち(自分の妹含む)を誘ってウンジャラゲの踊りの練習に励んだ。

高校に入ってからは、「志村けん」をキーワードに友情が活性化された。
このnoteの中でも◆「新しい幕の、はじまり、はじまり〜!」という記事ですでに登場していて、ブログにも書いたことのある高校時代からの友人とは「しむケン(志村けん)」や「ドリフ」をネタに、自分たちの笑いを彩るということをやっていた。具体的には、内輪の感性になりすぎて説明が難しいので省く。

大人になって友人と別々の地域に住むようになり、会うことは滅多になく、たまにしかメールをし合うことがなくなっても、久方ぶりの連絡ですっとぼけて、わざと相手を「しむケン」と間違えてみたり、相手のお父さんを志村さんだと思い込んだ内容のメールをしてみたり、ついこの間も志村けんさんのお誕生日(2月20日)に彼女のお誕生日と間違えたふりをして「お誕生日おめでとう!」のメールを送るというギャグをかましたばかりだった。
志村さんを心に据えたそうした遊びが、私たちの友情をあたため続けたのである。

そんな矢先に——志村さん入院のニュースはもちろん、私たちの間で即座に話題に上がっていた。友人は「胸が張り裂けそう」とメールに書き、「祈るのみだね」と、結んでいた。

私は、志村さんの最近のお姿を思い浮かべていた。
最後に見た番組といえば、「志村どうぶつ園」だった。

大人になってから、一定の期間、私はテレビを見なかった。あえて持たずに暮らしていた時期が長い。
だが今は家族と暮らしているので、テレビのある環境だ。自分から積極的に見る番組はないのだが、「志村どうぶつ園」だけは、家族が見ているとたいてい合流して見るようにしていた。

そうそう、2017年には、その頃福岡に住んでいた先の友人宅を訪問し、そのときにも「志村どうぶつ園」を彼女と一緒に見たものだった(その頃も私はテレビを持たない暮らしをしていた)。もちろんこのときも、二人にとって「志村の番組だから、見る!」という絆があったのは間違いない。
(☆その旅の記事はこちら。単なる旅行記というより、私の普段からの様々な要素を散りばめた長いものになっている。↓
「旅の話〜友との楽しい再会と、太宰府天満宮で過ごした幻想的な夜。風太郎に導かれ、菅原道真を想う〜」

志村さんの類まれなる存在感

志村さんの出る番組を見ていつも感銘を受けていたのが、その稀有な存在感だ。子どもの頃はそんな風に見たことがなくて、気づかなかったのだが。

ほかのお笑い芸人のように「我が、我が」という様子が見られず、ほとんど物静かなくらいに、場に存在している。なのに志村さんを中心にできあがる空気があって、他の人たちはその空間で「志村さんを取り巻いて」存在しているように見える。
それは発言という目に見える点だけでなく、「俺! 俺!」というギラギラしたエネルギーが感じられないのだ。むしろ優しさ、受動的、という言葉も浮かぶ。

最近の、お笑いやバラエティーの番組を見ていると、砲撃のようにしゃべり合ったり、いわゆる「ひな壇」で誰がどう目立つか、いじるか、いじられるかなど気を張り合っているのが伝わってきて疲れることがある。
その中で、志村さんの静かな存在感は異なっていて、目立った。

たまたま、私が近年見たことのある志村さんの番組といえば、前述の「志村どうぶつ園」なので思い出すのだが、動物たちも志村さんに対してはくつろいでいた。ほかの人には心開かない動物も、志村さんには心開いている姿もあった。
それは接し方というのではなくて、志村さんの放つエネルギーそのものに、動物たちが安心するのだろう。志村さんの空気にすっぽりおさまると心地がよかったのだろう。

以前私は、志村さんが津軽三味線を演奏されると知った時にも思ったのだが、志村さんにはとても内向きで、芸術の世界を静かに心の中で育てている一面があって、一方それを押し付けがましく「表現しよう、表現しよう」とせずに抑制するような、不思議なバランスを感じた。
表現活動をするが、表現に「我(が)」がないと言えばいいだろうか。
今思うと、数々のコントで見てきた志村さん特有のキャラクターたち、あの人たちは志村さんの世界の中で小説や映画の登場人物のように、いきいきと「個性」を持って独立していたのだが、これもまた稀有なことだと思うのだ。
志村さんは「作者」であると同時に、彼らを我が身に降ろす「チャネラー」のようでもあった。
そして私たち観客は、そのひとりひとりの個性に対して自然と愛情を感じる。どんなに変わった個性のキャラクターでも、身近にいる親しい人たちのように親愛を持って見ることができる。

それは、演じている志村さんに、彼らへの愛情があったからだろう。

志村さん、ありがとう

まだやっぱり、不思議な気がする。
もう、あのずいぶん親しんだ志村さんの笑顔を、見ることはできないのか。
新しい志村さんの表情を、見ることはないのか。

「えっ、今日からは志村けんさんのいない世界なの!?」

今はそれに慣れないけれど、私の心には、あの歌が響く。
そのグループの一員であった、若々しい志村さんのお姿とともに。
私も、死ぬときにはこんな風にお別れしたいな、と常々思っていたあの歌。

「さよならするのはつらいけど
時間だよ
仕方がない
次の回まで ごきげんよう」

志村さん、ありがとう!


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