理由というラビリンス・枠を超えた決断

自分で「理由はわかっている」と思っていることは、かえってその正確性があやしく、「理由はわからない」ということを自覚して認めているときの方が、態度としては正確だ(ただしそれは、自分の内面を見つめることを放棄して怠けるためにただ「わからない」を決め込む態度とは、違う)。
……こう聞いたら、あなたはどう思うかな。

私たちが「確かにこれが理由だ」と思って何かをしているときの「理由」の内容はときに単純明快で、疑う必要がないように思える。
たとえば生存や日常の必要性に従っていて、それ以外の理由付けやどうしてそうしたかをわざわざ考えることは意味がないと感じるかもしれない。

その一方で、「腹がへっていた。そのとき、食べたいと思ったからだ」と、あるものを食べた理由を説明した場合に、「どうしてそれを選んだの?」と問われ、「たまたまちょうどよくあったからだ」と答えるとする。すると、さらに「ほかに、これもそばにあったじゃない。なぜ、これではなくそれを選んだの?」などと理由を深掘りして追求していくと、だんだん自分でもそこまで明確には説明ができないという要素が出始める。
あるいは、自分で答えられる「理由」に含まれていた要素の複雑さが見え始める。そこには、あなたがこれまで信じてきたことや経験が反映されているとわかってくるのだ。

それでもなお、そんな風に「自分で考えて見つけられる理由」をことごとく明るみに出しても、結局本当にその通りの理由だったのかどうかは不明だ。
そこにファクターX、自分で意識化していないその他の要素が絡んでいないとは言えない。

しかもあなたがその時点で「わかっていない」要素であるファクターXの中にこそ、たいへん有益なものがあるとしたらどうだろうか。

わかっている理由はあてにせず、わかっていない理由に信頼を置く

ここから私は「わかっている理由をあてにせず、わかっていない理由にこそ信頼を置く」ための話をするが、こうした概念を利用して、巧みに「本当は自分でわかっている理由があるのに、わかっていないふりをする」という「にせ〇〇」のケースがあるのでふれておこう。

にせ直観について

つまり、自分としては「こういう動機なんだ」という自覚があるのに、それをないことにして、まるで理由のわからない「直観であるかのような扱い」をあえてするという場合だ。
誰に対してそうするわけでなくとも、自分自身に対してこうした演技をする可能性がある。自分をだまそうとするのだ。自分の選択を「強く信じたい」「正しくあってほしい」と願うときに起こりやすい。

こういったごまかしは、自身の内面によく気がついていれば区別がつくものなので、自分の内をいかに正直に見ようとするかの「意欲」の問題だ。
よって、ここでは「それは本当の直観とは別ものである」という指摘と確認をするにとどめる。

理解するだけでは十分でなく、実際の選択を一致させること

「理由」の出どころには二種類あり、それを区別するには、「恐れによる動機(分裂した自己からの動機)」「自分の魂から湧いてくる動機」の違いを理解することが必須である。
しかし、両者の違いを理解しているだけでは十分でない。
なぜなら、私たちは違いについて理解し、どちらがどうという区別がついていてもなお「その認識を無視する」ということをやってのけるから、違いを理解した上で「理解と、実際に自分が行う選択とを一致させる」ところまでできるかどうかが重要なのだ。

そのためには、いかにあなたが「納得」しているかが鍵となる。
理屈としてわかっていてもどこか納得していないという状態は、今まで信頼を置いていたやり方を引き続き採用することにつながる。根底であなたは、そちらの方がより頼りになると信じているからだ!
この状態からは、これまでの実体験がその(かつてと同じ延長上にある選択の)確かさを裏打ちしているように感じられることだろう。そしてそう感じること自体をどうこうしようとしても、らちが明かない。
そうではなくて問うべきは、果たしてその経験の中身はあなたが「繰り返したいほど評価している内容」なのか。再びそのやり方に乗ることが何を意味するのか、という点だ。

ここに、恐れによる動機の「無益さ」に気づくきっかけがある。
逆に、この無益さが腑に落ちなければ、恐れによる動機を自分の選択の正当な理由として採用し続けるだろう。

まず冷静に眺めれば、現代社会で私たちが「当然」と受け入れている動機のかなり多くが恐れに基づいており、このことから認識しなければならない。
「恐れによる動機」と「魂から湧いてくる動機」を区別する特徴を挙げると、以下の通りだ。

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