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#1 ギフテッドについて / Life is Gifted

自分の人生が仕事に支配されすぎて、泥沼から脱却するべく、とにかく文章を書き始めてみようという試み。

次はないかもしれない今回は、一番最近読んだ本、『ギフテッド 光と闇 知能が高すぎて生きづらい人たち』から「ギフテッド」について考えてみます。


ギフテッド(Gifted)って、なんぞや?

ギフテッドというと、私の中のイメージは、 大好きなアメリカのドラマシリーズ「THIS IS US」に出てくるランダル・ピアソン、その人です。目を見張る賢さと利他的な魂、自分の能力を隠そうとする時期があったり、独り抱え込む困難は自分で解決すると周囲に見られていたり、頼られすぎてしまうことがある、そんなイメージです。

冒頭の本は、新聞記者の方が様々な角度から情報をまとめられたもので、専門書ではないが、選民意識が芽生えるような才能教育の失敗の事例や、IQなどの数値で定義しないと結論した文部科学省の会議の事例なんかも紹介されていて幅広い。IQスコアが高くてメンサの会員だという方だけでなく、特異な障害(?)を併せ持った事例も出てきて、こんな世界もあるんだと思う。

ただ、網羅性ゆえに、「ギフテッドが抱える困難な側面」というよりも「個々の特異な事例」として映り、「ギフテッドって、なんぞや?」という疑問符が残ってしまいました。

「ギフテッド」は時に便利なラベルだけれど、明確な境界があるわけではないので、「ギフテッドって、なんぞや?」という問い自体に意味はなく、このラベルを使って何を解決したいのか、目的を明確にしないと混乱するのかもしれない、と思いました。さもなければ、「今日はいい天気だね!」の「いい天気」と「ギフテッド」は似たような粒度なのでしょう。

同時に、目的を持たない人がなんとなく「ギフテッドって、なんぞや?」と興味を持った場合、「IQテストで高い数値が出る人」「メンサの会員の人」「コミュニケーションが難しい人」というようなレッテルが貼られやすいのは、と思いました。(わかりやすいですからね。)

強いて言うなら、(そして時代の波に乗るなら、)最後までAIで置き換えられない力を持っている人がギフテッドという言葉に近い気がします。

ギフテッド(Gifted)の苦悩

排除と孤独

ギフテッドに限らず平均的でない人は、排除されやすい運命にあります。
扱いづらいですし、同調を重んじる社会では、ルールが脅かされます。
これに対し、「理不尽だけれど仕方がない」と信じたのなら、その人はギフテッドではないでしょう。

冒頭の書籍で、言語性IQに15以上の開きがあるとコミュニケーションが難しくなるという話がありました。IQに限らず、そういうことはあると思います。そのコミュニティの平均から外れるほど、人々に求められるコミュニケーションの難易度は高まります。

しかし、そんな話題になると、知能が高いのなら低い方に合わせられるはずだ、という意見がよく出てきます。(それが本当なら、2歳児とのコミュニケーションに苦労する親は存在しないのではないか。)
知能が高すぎる人は異端であり、わからないならわからないなりに理解し合おうとする姿勢が生まれにくいことが感じ取れます。それこそ、コミュニケーションの破綻ですよね。

映画 『ギフテッド』

もうひとつ、『ギフテッド』という映画を見ました。
これがとても良かったです。

以下、抽象的なレベルでのネタバレを含みます。

この映画は、女の子だけがギフテッドなのかと思いきや、家族が皆ギフテッドのようでした。
何が良かったかというと、皆、とても普通なのです。確かに突出した才能はあります。女の子の母親の死も、高知能者にありそうな設定です。だけど、決して特異な人達ではありません。

皆、普通に恐れ、遊び、悩み、誰かを守り、間違いを冒し、尊敬し、褒め称え、不安になり、寄り添い、失敗し、欲望し、浅はかかもしれなくて、喜び、愛したり、愛されることを望んでいます。
特別な才能は、彼らを構成する一部に過ぎません。

ギフテッドだから協調したり、コミュニケーションが取れないなんてことはないですし、周囲の大人は温かく女の子に寄り添います。

他者より優れているかとか、社会的に成功しているかとか、しっかりした人間であるかとか、世俗的なイメージを吹き飛ばしてくれます。

見ていて、優しい気持ちになれる映画でした。
最後の哲学が良かった。

真理を追求する純粋な心

理解しよう、より良い明日を築こう、幸せな社会を目指そう。
そのために、どこまで純粋を貫く心があるか。

「特異なギフテッド」ではなく、皆がそうあれれば良いのに。
そんな気持ちを思い出しました。

Life is gifted.
今日も良い天気だね。


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