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おじいちゃんとレコードする。

おじいちゃんが死んで翌日。
こんな風に、おじいちゃんの死について書くのは不謹慎だろうか。

とりあえず、書き終えた今、この冒頭の部分に戻って、また文章を書いているのだけど、今日一日、暇ができてはパソコンに向かって文字を打っていた。

最後まで読めばなんとなく伝わるかもしれないけど、書いてることで、気を紛らわせたかったのかもしれないし、

今日、グリーフケアという概念を知ったばかりなのだが、まさに今グリーフを体感している状態かもしれないと思うと合点がいく。

もしかしたら、書くことが、おじいちゃんの死と向き合う上で私にとってのグリーフケアに繋がってるのかもしれない。

死別を経験しますと、しらずしらずに亡くなった人を思い慕う気持ちを中心に湧き起こる感情・情緒に心が占有されそうな自分に気づきます(喪失に関係するさまざま思い:「喪失」としてまとめます)。また一方では死別という現実に対応して、この窮地をなんとかしようと努力を試みています(現実に対応しようとする思い:「立ち直りの思い」としてまとめます)。この共存する二つの間で揺れ動き、なんとも不安定な状態となります。同時に身体上にも不愉快な反応・違和感を経験します。これらを「グリーフ」と言います。グリーフの時期には「自分とは何か」「死とは…」「死者とは…」など実存への問いかけをも行っています。このような状態にある人に、さりげなく寄り添い、援助することを「グリーフケア」と言います。

日本グリーフケア協会

さて、話を書き始めに戻していく。
不謹慎と表現したものの、そもそも不謹慎ってどんな意味合いだったけ。
なんてことを思い、スマホで意味を検索する。

どうやら、「慎む」は行動を控えめにしたり、
軽はずみなことがないように用心する意味で
「謹む」の場合は、相手への敬意を示す時に使うらしい。

なんとなく知った気になって使っていたけど、
こうやって改めて調べてみると、ちゃんと意味を説明できる日本語なんてさほどないかもしれないなと、おじいちゃんの死とは全く関係ないことをふと考える。

それはさておき、
なんで、このタイミングで文章を書いているか。

当然のことながら、おじいちゃんが死んでしまったことは、とっても悲しい。

悲しみに浸りすぎてもいけないと思いつつ、
どこまで想いを馳せて、どう受け止めて
どんな態度でいることが良いのかが正直全く分からない。

ふと、おじいちゃんがもういないことを考えると
涙は出てくるし、

母の涙を見るたびに、こちらもグッとくる。

その一方で、仕事を打ち返している自分もいるし、もしかしたら、仕事があった方がいつもと変わらず、過ごせるのかもしれない。

今日、母に代わって、来年中学3年生となる弟の三者面談に行ったけど、
弟も淡々と祖父が亡くなったことを伝えるし、
重ねて私からも湯灌があるから休むことを先生に伝える。

そこには、別に涙は流れないし、
しんみりとした雰囲気となるわけでもなく
おじいちゃんが死んだ前と変わらない私であり、弟だったように思う。

帰り道は、帰ってきたテストの結果について
どう感じたのかをお互いに話した。

1学期から100点以上点数を上げて、これまで平均点以下だった彼が、はじめて平均点を越す結果を出したのだ。

「点数が上がって嬉しかった。」
彼は、シンプルにそう言った。

それを聞いた私は、嬉しいことを、嬉しい。と
素直に言える彼をカッコいいなと思ったし、
そのまま変わらずいて欲しいと心から願った。

もちろん、ここから更に伸びるかどうかは、本人次第。

だけど、彼の可能性はとてつもなく大きいし、
来年は受験生になるわけだけど、
今の自分のレベルで学校を探す必要はない。

日本ではまだ学歴が個人への信頼の一つとして見られる風潮もあるし、
一方で、学歴関係なくやりたいことをやってる人も沢山いる。

いずれにせよ、いろんな視点があること、
やろうと思えばいくらでも道はあること、

そんな話をしながら自転車が置いてある駐輪場まで一緒に帰って彼は一度自宅へと戻り、私はまた祖母が待つであろう家に向かって歩く。

その間にも、messengerに連絡はくるし、スラックの通知もやってくる。

おじいちゃんが死んだことなんてもちろん関係なく、私の周りは、いつもと変わらない時間が動いているようだった。

私が止まれば、当然仕事は進まないし、
私の対応が遅いことが、まさか、おじいちゃんが死んだからだなんて私が言わない限り誰も気づかない。

けど、メッセージを返す気にはあまりならないし、ただレスが遅いのにも気が引けて、「おじいちゃんが亡くなったから、ちょっと待ってもらっても良いですか。」

なんて、伝えたくなるけど

それはそれで、おじいちゃんの死を言い訳にしてるような感じもして、また気持ちを持て余す。

そして、同時に不思議に思うのは、

相手が求めてることに対して自分が対応できない時に感じる、このよく分からない罪悪感。

連絡が来たら、すぐに返さなければならない。

そんな設定が、いつの間にか自動的に組み込まれていて、どうやって解除すれば良いのかも分からないし、解除できたところで、どうすれば良いのかも分からない。

これははなんなんだろう、と。

そんなことを考えながら
Podcastで「死について」で検索して出てきた
COTENラジオの番外編の続きを再生する。

深井さんが“近親者が死んだ時の心の整理の仕方が分からない。誰も知らない。”
といったことを話していた。

ああ、まさに私もそんな状態だなあ、と、今の自分を客観視する。

そして、「死」というものが身近で生じたとき、
本人もそうだけど、周りもどう扱えば良いのかきっと分からないだろうなと思う。

そういう意味では、これを読んだ人はいったい何を思うのかは、純粋に興味がある。

書いたからには、今、私が何を思っているのか
何を感じているのか、知って欲しいという気持ちもあるような気はするけど、
別に慰めて欲しいわけでも何か言葉が欲しいわけでもない。

ただ、上手く説明はできないけれど、
今、感じている、考えていることを全部残しておきたい。なんてことを思っている。

死んじゃって、悲しい。寂しい。
そんな自分が知ってる言葉だけで気持ちを片付けたくない。

こんな人だったよね。こんなことしたよね。
そんな思い出を振り返るだけで終わらせたくない。

おじいちゃんは今、霊安室にいる。
口は開くことはないけど、顔を見て声をかけることができる。
身体はとても冷たいけど、直接触れることができる。
そこにいけば、会いに行くことができる。

けど、今週の日曜日に火葬が行われたら
おじいちゃんは目に見えるカタチではなくなっちゃう。

そうなったら、どうなっちゃうんだろう。

そんな状況であることも、やっぱり皆んなは知らない。当然だけど。

結局、今自分がどうしたいのか、どうすれば良いのかよく分からない。

けど、いや、分からないから、

とにかく、今は書いていたい。

こんな風に書き綴ってると、
なんだか客観的に死について捉えられているような気がするけど、
とてもじゃないけど、まだまだ気持ちは混沌としている。

かつて、おじいちゃんは学校などの演奏会をレコードにする仕事を商いにしていたらしい。

私が今していることも、ある意味レコード。

日常が戻ってきたら、あっという間に考えなくなっちゃうかもしれない。

それでも、今、この瞬間、自分から出てきたものを書けるうちに記しておきたい。

親愛なるおじいちゃんとの対話でもあるような。そんな時間をとれていることを大切にしたい。

最後に、今日、みんなで食べた明太子パスタを添えて。



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