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あの日飲んだ黒い雨の「におい」

米軍による原爆投下後、広島に降った「黒い雨」の取材を続けてきました。
インタビューや体験記の読み込みを通して、200近い証言を見聞きしてきたのではないかと思います。

「土にしみ込まず、ぽろぽろと転がっていった」
「赤いトマトに黒い筋がべったりと残っていた」
「川まで黒く染まり、死んだ魚がたくさん浮いていた」

その雨の異様さを物語る証言はどれも生々しく、真実味を感じさせます。体験した者でなければわからないディテールがあると思うのです。

これまで多くの証言に触れてきましたが、その「におい」について聞いたことは初めてでした。
今日、第二次黒い雨訴訟の第一回口頭弁論が広島地裁であり、その報告集会で話を聞いた方でした。

その男性が黒い雨を浴びた場所は佐伯郡小方村。現在の大竹市で、爆心地からは直線距離で30km程度離れています。
下図は、これまでに調査された3つの降雨域と、第二次黒い雨訴訟の原告がいた地点を表しています。その男性が雨を浴びた地点は、左下の赤い点です。どの雨域調査でも拾い上げられなかった証言です。

集英社新書プラス連載《「被ばく者」は本当に救われたのか》から引用

しかし、その証言は生々しいものでした。
この日陳述された訴状に付された「被爆状況」には、次のようにあります。

小瀬川中州で隣家の同級生と水遊び中、突然空が黒い雲に覆われ夕暮れの様になり激しい雨に見舞われた。ドロッとしたネバネバした雨から何度も水に潜ったり、流して黒色に染まる体の変化をはしゃいで両手に掬い繰り返し飲んだ。黒い雨で天井を覆われた異変に興味を持ち遊んでいた。突然物が二重に見えだし、泣いて近くの自宅に帰った。

男性は当時6歳、国民学校1年生の遊び盛りでした。
雨が降り出したのは、友達と水遊びをしている最中のこと。初めて体験する「黒い雨」が面白くて、川から顔を出しては浴び、潜って洗い流しては浴び、を繰り返したそうです。
不思議な雨への興味は尽きません。空に突き出した両手を皿にようにして、雨水を溜めました。その黒く濁った雨水を口に近づけた時、「におい」を嗅いだというのです。
それは、黒色火薬のにおいでした。花火に使われているものです。漁師の家の友達から物々交換でよくもらっていたといい、雨水を飲んだ時にすぐ「火薬のにおいだ」と思ったそうです。

黒い雨には爆心地近くのススや灰も混じっていたと考えられています。そうしたものが、このにおいの元になったのでしょうか。
これまで、粘り気や色など、その質感についてはこだわって聞くようにしてきました。しかし、においに関するリアルな証言はこれが初めてです。
改めて黒い雨、原爆被害についてはまだまだ分からないことが沢山ある、と思った次第です。

上記の降雨図と原告がいた地点を比べて見ると分かるように、多くの原告が降雨域の外側で雨を浴びています。
第二次「黒い雨」訴訟の原告は、降雨域の外側であっても黒い雨を浴び、原爆放射線の影響を受けた可能性があるとして、「被爆者」に認めるよう広島県・市に求めていきます。

第一回口頭弁論期日に集まった78~91歳の原告たち。真夏日、横断幕を手に歩く。
7月18日、広島地裁前

客観的資料のない記憶を、どう「被害」に位置づけてゆくか?
調査が実施されていない場所での証言を、どう捉えてゆくか?
こうしたことがポイントになっていくと考えています。

拙著『「黒い雨」訴訟』でも書きましたが、
従来の裁判で国側は、証言の信頼性を否定する主張を繰り返していました。原爆投下から何十年も過ぎているし、手帳欲しさに虚偽の供述をする可能性もある、と。
これに対して司法は、黒い雨のような「特異な記憶」は揺らがないとの判断を示しています。

黒色火薬のにおいがした、という「黒い雨」の記憶。
「作り話を言うとるんじゃない、実際にあったことを話している」――
力のこもった声を思い出します。

厚生労働省が7月に発表した「被爆者」数は11万3649人。
今回取り上げた男性や原告の多くはこの数に加えられていません。
「被爆者」とは誰だろう、原爆被害はどこまで及んでいるのだろう、ということを考えながら、78年目の夏を迎えようとしています。

第一回口頭弁論のレポートは雑誌に特集記事を寄稿予定。またお知らせします。
第二次「黒い雨」訴訟の詳細は以下のWeb連載へ(全文無料、全5回)。
第1回:なぜまた裁判に? 終わらなかった「黒い雨」訴訟

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