格闘する者

この時世の事を、私たちは多分生涯忘れないのだと思う。
外に行けない。買い物も、デートも、散歩も、日課のランニングも、なんとなく「よくないもの」として避けなければならない。
世の人はフラストレーションが溜まり、多分気にしないように努めているけれど、なんとなく体に糸がまとわりついたような不自由さを感じて生きている。
みたい。多分。
私はインドアだ。そして引きこもりだ。
おうち大好き。ごろごろ大好き。
外で遊ぶのもショッピングも勿論好きだが、おうちでごろごろしているのはもっと好きだ。
そんな私が、この自粛期間に何を不自由に思うことがあろうか。困った事に、これがほとんどないんだな。
私はバイトをしていないし、大学もオンラインに切り替わった。寝坊や遅刻で単位を逃してしまう私にとって、最大の問題である「開始時刻までに登校する」という条件が取っ払われた今、私は割と快適に授業を受けている。授業を受けて、本や漫画を読んで、食事をして、ごろごろして、昼寝をして、一日を終える。長い長い夏休みのようだ。
加えて、まあ虚弱である私は頻繁に熱を出し一、二週間は使い物にならなくなる。そうすると授業を休まざるを得ないし、それが頻繁になるともう終わりだ。欠席が嵩んで単位がもらえない。
お前の不摂生が問題なんじゃないかと思われている気もするのだが、このコロナ禍で、毎日うがい手洗いをいつも以上にし、入院してからは以前のように体調不良を押して活動することを控え可能な限り回復に努め、外出はほぼほぼせず(どうしても外せない用事というのは存在してしまう。例えばエントリーシートを速達で出す為に郵便局に行くとか)、毎日栄養に気を使った食事を心がけている最近でさえ、私は熱を出した。
嘘だろ。勘弁してくれよ、と私は頭を抱えた。
もう何が悪いのかさっぱりわからない。え、これ以上何を努力すれば熱って出ないんですかね。
平均二ヶ月に一回のペースで三十九度後半の熱を出す。抗生物質とステロイドはお友達だ。嫌な友達だな。今回もマジよろしく頼むな。熱を出してる間は食事も取れず、阿呆みたいにだくだく汗をかいて、せめてもと思いながら必死こいて水を飲み、傷付いた狼のように眠るしかない。ちなみに今回は脂肪が落ちすぎたのかめちゃくちゃ綺麗なシックスパックが出来上がる始末だった。たまにある。
まあそんな病弱な私だ。
幼い頃からこうなのだから、そりゃ家にいるのが上手にもなるだろう。しかも合法的に家にいられるのだ。体調が悪くても授業が受けられるのだ。なんて快適なんだ。インドアとか引きこもりだとか謗られる事もない。素晴らしき日々!!
……しかし問題がある。




私、こんなに(当社比)充実した日々を送っていて、働きに出られるのか?



これには頭を悩ませられる。
私、四回生なのだ。
しかし、ええ、演劇にかまけていたせいで(げふんげふん)就活、さーっぱり進んでいないのです。
痛い、痛いよ母さん、石を投げないで。
まあ何社かエントリーシートを出したりしたものの、残念ながらまだ内定は一社も貰えていない。二社から不採用が届いた時点で「私、社会に必要とされてないんじゃね??」と思って病んでいたら、幼なじみといとこから「精神弱すぎやろ」と突っ込まれたので泣く泣くまた頑張ってリクナビを見たりしている。(このリクナビだって、今年の2/28に、一緒に宝塚を観に行っていた某こんにちは赤ちゃん先輩に、終演後大きなフルーツタルトで優雅なティータイムの最中「七遊、就活どうなってんの?」と聞かれ、元気に沈黙を守り続ける私に「……とりあえずリクナビ入れなさい、早く」と言われたのでめそめそしながら入れた)
やりたいことがいまいち何か分からずにいるのだが、そもそもみんなやりたいこととか、そういうのあってすごいなと思う。因みに私の仲良い人ほど留年が確定していたり院進したりしちゃうから参考にならず、そして手に手を取り合って頑張ることもできない。実に孤独な戦いである。
私がやりたいことってなんだろうか、と思う。
中々バイオレンスかつ古風な京都に長く住う実家で、親の敷いたレールを粛々と歩いてきた(そうじゃないと人間じゃないみたいな扱いを受ける)私は、自分でこういう事がしたいとか、そういうのを思うのが苦手だ。(経験がない人には分からないかもしれないが、そういう素振りや発言をすると人格否定や夢を嘲笑う発言が浴びせられ、酷いときにはボコボコにされるので、そういう思考はしない方がベターになっていく)
やだな、就活したくないな、と思いながら、また現実逃避のために本を読み始める。
本は好きだ。どこへだって行けるし、なんだってできる。私は読書は「没入」してしまうタイプであって、その世界に浸り切ってしまうのだが、そうしていると、ずっと旅に出ているように楽しい。
三浦しをんの『格闘する者に◯(まる)』は、中学の時に出会った作品で、当時「作家で読む」事を覚えた私が片っ端から三浦しをんの作品を読んでいた頃に出会った。私が三浦しをんを初めて読んだのは『月魚』だったが(ググってくれ。そして読んでくれ)、その美しく繊細な描写が気に入って、三浦しをんとはすごい人なのだなあとふわりと思って、二冊三冊と手を伸ばしてみると、なんじゃこりゃ、この人、作品によって全然文体が違うじゃないか、と思った。
そう、彼女はとても面白い小説家だ。硬派な文学作品を書いたかと思えば、だらしない日常エッセイを発表したりする。それがいかにも人間という感じがして、私は好きだ。
伝わる人には伝わるかもしれないが、「白乙一と黒乙一」のように「文学三浦しをんとエンタメ三浦しをん」がいるように感じる。
エンタメ三浦しをんは、その文体も描写も、とても生き生きとしていて、現実にいる人間をそのまま本の中に落とし込んだような人間味を感じる。生きている、と思う。


『格闘する者に◯(まる)』
あらすじ(裏表紙より)
これからどうやって生きていこう?
マイペースに過ごす女子大生可南子にしのびよる過酷な就職戦線。漫画大好き→漫画雑誌の編集者にはなれたら……。いざ、活動を始めてみると次々と襲いかかってくる。連戦連敗、いまだ内定ゼロ。呑気な友人たち、ワケありの家族、年の離れた書道家との恋。格闘する青春の日々を妄想力全開で描く、才気あふれる小説デビュー作。

画像1

(右奥に、恐竜のぬいぐるみちゃんの首が写り込んでいるな……)


嫌々就活を始めた私には野望があった。
それは、『格闘する者に◯(まる)』を五月から七月の間に読む、というものだ。
この作品は四回生の三月から始まり、夏前、正確には前期の期末が始まる前で幕を閉じる。
つまりドンピシャ今私は可南子と同じところに立っているのだ。私はこの遊びが好きだ。好きな作品の主人公と自分が同じ年齢である、その時期を楽しむ。まあ可南子の方が私よりは真面目に就活に取り組んでいるし、ちょっと悪いような気もするのだけれど。
この主人公・可南子は、おそらく若き日の三浦しをん自身。雑誌かのインタビューで読んだけれど、そんなような事を本人が語っていた。作者と主人公がオーバーラップすることはよくあるし、なんら不思議ではない。
可南子は、私は、ちゃんと就職できるんだろうか。
このうまくいかない事だらけの世界で、異端である自分を抱えたまま、ちゃんと就職して毎日同じ時間に出社して働いて退勤する、そんな日常を送れるんだろうか。
私、やりたいこともまだ見つかってないのに。

やりたいこと。やりたいことなあ。

いい演劇を見たら、私は役者になりたいなあと思う。役者にならなければ、と思う。
でも、こんな体で?いやあ商業は無理だろう。体が資本のあの世界で、私がどれだけ向いてないかなんて自分が一番よく知っているじゃないか。

いい小説を読むと、小説家になりたいと思う。小説を書かなければ、と思う。
小さい頃小説家になりたかったのだ。
本が好きだったし、空想が好きだったから。
まあ小説家とまでいかなくても、何か文章を書かなければなあとはずっと思っている。
久々にnoteを書いているのも、そのリハビリになればいいなと思ったからである。

私はやっぱり「何かを作ること」から逃れられないのだなあと思う。
想像すること。自分の世界に閉じこもること。それを文字に、舞台に、作品として残すこと。
世界を構築すること。
それは自分の一部を世界に向けて出力することと同義だ。
役者として舞台に立ち、ポートレートを撮ることと、短歌を読み、物語を綴ること、全て私にとっては同じ「私を覗け」という世界に対しての主張なのだと思う。その主張は私対世界の戦いなのである。
私は、格闘する。格闘しなければならない。
自分より明らかに強大な世界という敵と、そして自分という最も厄介な相手と。
我々は戦わねばならない運命を背負って生まれたのだ。この膨大な世界に対して、胸を張ってタイマンを挑まねばならない。
ああ、わかっている。その一歩として、せめても興味のある就職先を探す作業を再開しなければならないなんてことは。



野ざらしで吹きっさらしの肺である戦って勝つために生まれた
服部真里子『行け広野へと』

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