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ゼロを前に立ち尽くすエチュード

文章の書き方に関するノウハウなら、ネット上から書店まであらゆる場所に溢れている。
とはいえ実際自分にしっくりくる方法なんて、場数を踏んでみる事でしか見えてこないものだ。私自身noteを始めた事で改めて実感している。

最初は二次創作小説、その後に日記、読書メーターで255文字以内に綴る本の感想、そして今はこのnoteという場で公開している様々な記事。
形式は移り変われども、趣味で自分で書いた文章をネット上に公開する事をずっと続けてきて今に至っている。
そんな中で最近ようやく、自分なりに納得出来る文章において重要なポイントが分かってきた。

人によって千差万別だろうけれど、私の場合は最初の一行目。
ふと思いついたものでいい、自分でも好きだと思える最初の一行目を取っ掛かりにして書いたものほど、全体を通して読んでも納得のいく仕上がりになり、時が経っても色褪せない。

二次創作小説を書いていた頃はむしろ逆で、「こういう結末の話を書きたい」や「こういうタイトルに合う展開の小説を書きたい」などの内容ありきで始まり、書きたい場面を先に勢いよく書き上げてしまって、その場面へとうまく繋がるように状況を考えて組み立てて、冒頭から書き始めて最初に書いたくだりと合体させるという事をしていた。
書きたくて書き上げた場面を灯台のように頼りにしつつ、凪ぎ過ぎていくら漕いでも一向に前に進まない海の上を頼りないボートでゆらゆらと漂う気持ちで。

でも二次創作小説を書かなくなって、日記や字数制限のある読書感想文、そしてnoteに公開している様々な文章を書く事を10年近く続けてきた今では、最初の一行目に助けられる事がずいぶん増えた。
何本か書いた創作小説も、本気で書いたエッセイも、自分自身で好きだと思える記事ほど最初の一行目に対する思い入れが強い。

(以前書いた『互換』という小説は、まさにこの最初の一行目を思いついて、iPhoneのメモアプリに文章として入力してみた事で生まれた物語だった。この一行目がきっかけで見えた光景や状況を続きとして書き進めた事であの結末が見えてきて、ああこういうお話だったのかと自分でも驚いたぐらいだ)

こういう最初の一行目はどこからやって来るのか。
そう考えると、これまでに得てきた様々な知識や思い出が、地層となって私自身を形作っている。そんな漠然としたイメージが思い浮かぶ。
そこで何らかの地殻変動が起きて、衝動や高揚を呼ぶ最初の一行目が生まれて後になって奇跡とか呼ばれたりする。

だから私は「やって来る」のを待ちながら、文章におけるプロとアマチュアを決定的に分ける境界はこういうところにあるんだろうと思わずにはいられない。
勢いで境界と書いたものの、それはむしろ壁のような存在感でもって立ちふさがっている。
仰ぎ見て疲れた首を癒すべく背中をつけてもたれかかる、そんな壁だ。外側にあるせいで私自身のささやかな地殻変動など何の影響も及ぼさない。

日記なら悩まない。
「こんばんは。」から始めるか或いは、最近だと敬愛する作家・森博嗣さんの昔のブログに倣って「金曜日です。」のように今日の曜日を一行目に書けば、そこから先はスルスルと書きたい事を書きたいままに書き綴る事が出来る。
勢いにのって綴るうち、確かに自分自身から出力されたものでありながら、時として最初の一行目に勝るとも劣らない燦めきを放つ文章を書けている事に読み返して気付いたりもする。

それをどんな文章であってもコントロール出来ること。
アマチュアなりに考える、文章のプロの要件。

そこに近付きたいと思う。
プロになりたい欲求というよりは、書くことが好きな人間として、自分自身が納得出来る文章をより多く書きたいという意志だ。
そのために自分なりに必要な最初の一行目を、ただ待つだけでなく出来ることなら能動的に取りに行きたい。そのために必要なこと。

この記事を書き始めた時には全く意識していなかったけど、結論は冒頭で既に出ていた。
「場数を踏んでみる」
そこで見えてくるものを蔑ろにしないこと。

以前日記を書いていた時に「悲しくなった」と書いた後、ふと立ち止まってその6文字を消して、少し悩んで「焦燥感で胸がヒリヒリする」と書き直したことがあった。
その一連の行為を客観的に眺めた自分は「今横着しようとしたね、手癖で悲しくなったって書こうとしたね」と呆れていたけれど、自分だけの感情を何の気なしに安直な言葉に置き換える事をよしとせずに立ち止まる事が出来た事実は少しばかり自信になった。

そんなふうに書きたい。
使い勝手の良い便利な言葉に甘えず、だけど奇を衒うでもなく難解に走るのでもなく。
どんなふうに言語化すれば、自分の心に一番誠実でいられるか。
そこに鈍感にならずに書いていきたい。



今回の記事は最初の一行目に頼れず、なんにも無いところから捻り出して書き始めた。
そのおかげで実感した事がある。
文章を書く事は疑いの余地も無くアウトプットだけれど、こうして捻り出して言語化して書き綴ったものを自分で読んで、こんな事を感じていたのかと自分でも驚く、その一連の流れはインプットにとてもよく似ている。

以前どこかで目にした、創作はインプットだと言っていた人の話を身をもって味わえたのは、書く事を選択したからに他ならない。
そういう歓びを連れてきてくれるひとときだった。



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こちらの企画に参加させていただきました。


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