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【掌編】互換

 リョウの呼吸を可視化してくれる有り難みに気付いた時、長年抱き続けてきた煙草に対する嫌悪感が初めて消えた。
 換気扇の真下あたりに佇んで煙草を吸うリョウの横顔をベッドに寝そべったまま眺められる事は、手狭に思いつつ我慢して住み続けてきた我がワンルームにおける唯一と言って良い誇るべき利点だ。電気を消してある深夜の室内は本来なら真っ暗な空間のはずだけれど、窓の外すぐそばにある街灯の明かりが遮光タイプではないカーテンより圧倒的に強い影響で、この部屋の中は何時だろうと完全な暗闇になる事はなく、室内の様子はおろか下だけ履いて上半身は何も身につけていないリョウの全身、そして換気扇めがけて吹かれた煙が吸い込まれる様子までしっかり見える。
 二度のセックスの余韻で気だるい身体と頭は休息を欲していた。だけど煙が立ちのぼる煙草を指に挟んで持った右手が、口元の辺りと台所のガス台あたりの高さを気まぐれに往復する光景、それを行う張本人であるリョウの姿を眺める事には休息とは別次元の価値がある。
 リョウの口元の高さに運ばれた煙草の先の輝きが僅かに赤く増す様を目にすると、自分自身も息を吸う行為を意識してみたくなる。吸う、吐く。吸って吐く。そのうちに煙の姿をしたリョウの呼気は換気扇へと吸い込まれる。部屋の外に出てしまえばたちどころに夜の外気に拡散して消えるだろう白い煙はリョウの一部を外へと逃しているようで、それは煙草に縁のない生活を送ってきたこれまでの自分からは生まれ得ない発想だった。ベランダの無いこの部屋で煙草を吸う際、室内に煙や匂いが充満するのは嫌だと打ち明けた最初の日から、台所の換気扇を点けてその真下で吸う事を守ってくれている。日常というよりもはや自らの内部と呼んでも相違ない居住空間で、好きな人が呼吸をしているところを眺められる幸せを知ったのもリョウが最初だった。
 不意にリョウの頭が僅かに動いてこちらを向いた。完全な暗闇ではない室内のおかげで目が合った事を認識出来たのと同時にリョウの上半身が大きく震える。明るければもっとしっかり確認出来ただろう驚きに見開かれた両目を密かに想像で補完した。

「びっ、くりした…。起きてんの?」
「うん」
「寝てていいのに」
「ん」

 一人のままで居るのが数分程度の一時的な事だと分かっているベッドで先に眠ってしまうほど薄情じゃない。だから再度換気扇の方に向き直って煙草を吸う作業に戻ったリョウの姿を眺めながら、先ほどの驚く姿を思い起こした。どんな事を考えているリョウだろうときっと変わらず好きだけれど、こちらに想いを向けてくれる事の特別さにはどれだけ経っても飽きる筈などない。
 だからもっと気を引いてみたくなった。水道から解放されてシンクに落ちる水の音が聞こえ始めたリョウの居る辺りに向かって、ベッドから動くことなく話すように声をかける。

「寒くない?」

 右手首から先の動作は角度的に見えなかったけれど、右腕を慣れたふうに動かした後に上げたのが見えて水音が止んだ。吸い終わった煙草を水で濡らしてシンクの端に押し付けるルーチンに暗闇は影響しないらしい。

「大丈夫」
「僕は寒い」

 パチン、という小さい音の後に換気扇の音が消える。一仕事終えたリョウが戻ってくる合図。そうして換気扇の真下から僕が居るこのベッドまで最短距離で六歩、日々の反復を経て最適化された帰路だ。

「じゃあ私寒いかもよ。あ、嘘。冷たいかも」
「一緒じゃん」
「全然違うよ。そっち寄って、狭い」
「一緒じゃん?」
「違うってば」
「いっ、」

 声になって放たれるはずだった疑問は、押しつけられた唇に遮られてリョウの喉の奥に消えた。押し入って触れてくる舌は煙の余韻のように苦く、遠慮なく寄せられる肌の冷たさは会話よりも的確で雄弁な実感だった。


<終>
(初出:2016/11/13)