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本棚の並べ方どうするか問題

内田樹さんの著作『街場のメディア論』(光文社新書)の中に、以下のような文章があります。

「本棚に著者名のアルファベット順に本を並べるということを僕たちは決してしません。もしそんな奇妙なことをしている人がいたとしたら、その人はその人で「変わった人間だと思われたい」という欲望に支配されていると診立てて大過ありません。」

内田樹さんはご自身の文章に対して著作権フリーを公言されている方なので堂々と引用させて頂いたのですが、自宅の本棚に並べる本を著者名の五十音順にしたいわたし、毎回このくだりを読む度にうるせーよ!!と暴言が飛び出します。

※ちなみに『街場のメディア論』は医療と教育の現場に消費者の原理を持ち込む事の罪深さやモンスタークレーマー発生の仕組み、ネット上で匿名で暴言を吐く事がどれほど自らを傷付け損なうか、等を明快に語られている名著だと思っています。だから上記の引用箇所には同意しかねるけど、それはそれとして初めて読んだ時からずっと手許に置いてます。

昨年の夏に引っ越しをしたんですが、その際に蔵書を思い切って整理してたくさん手放しました。
今の部屋に住むようになって新しく本棚をふたつ買った事をきっかけに、手持ちの蔵書のうち文庫本と単行本はこの本棚に入る分だけを手許に置こうと決めて今に至っています。
まだ半年も経っていないけど、それでもずいぶん新陳代謝を重ねて今の姿をしている本棚。好きな本しか存在しないスペースはぼんやり眺めているだけで癒される。加えて単行本はまだしも文庫に関して言えば、どこに何があるかをすぐに把握できる整然がわたしにはとても重要で、そのために必要な並べ方が「著者名の五十音順」だったわけです。そういう自己満足を奇妙とか拗らせた自己顕示欲みたいに言われましても、とまた暴言が飛び出しそうになるのを堪えつつ。

そして最初の「著者名の五十音順」の話に戻るわけですが。
友達がいないので他の人が自宅の本棚に本をどう並べているのかを全然知らなくてですね。実家に住んでいた頃に目にしていた母の本棚を思い起こしてみても、並び方がどんなふうだったかまでは記憶が無いなと。
わたしの場合は、

・文庫本は国内作家と海外作家に分けた上で五十音順
・新書は出版社別(好きな作家の森博嗣だけは数が多いので作家単位で分けて置く)
・大きさが微妙に異なるソフトカバー本やハードカバー本、絵本などの大型本や雑誌類は背の順

に並べるのがいちばんしっくりきたので、今の部屋に越してきてからはそれを徹底しています。
ハヤカワ文庫なんかの大きさが違う文庫本が、他の文庫本の並びに交じって高さがガタガタになっている状態が気にならないのも不思議と言えば不思議なんですが。
そして文庫本以外の本を背の順に並べる事に関しては、そうする事で思いもかけない並び方になってくれるので、眺めて面白い本棚になり得る理由として採用しています。ジャンルが混ざろうとも俯瞰すればすべて自分が好きな本なわけだし、そうして生まれる整然も含めて心地良さが生まれている。そう思う。

ところで文庫本の話に戻りますが、ひとくちに五十音順に並べると言っても、好きな作家の本ばかり読むタイプだとひとりの作家だけでそれなりの量になってしまいますよね。
そういう時の並べ方にも何通りかあると思うんですけど、みんないったいどうしているんだろう。パッと思いついたものだとデビュー作を最初にして発表順に並べるとか、出版社別とか、そういうの全然関係なく自分が読んだ順に並べるとか。私が思いつかないだけできっと他にもある。
わたしの場合は「最初に読んだ一冊」と「デビュー作」を比較して、よりインパクトがあった方を先頭にします。あとは出版社順に分けつつ読んだ順にする事が多い。うちの本棚だと町田康と伊坂幸太郎が「最初に読んだ一冊」パターン。

こんな感じ。
(参考までに:町田康のデビュー作は『くっすん大黒』、伊坂幸太郎のデビュー作は『オーデュボンの祈り』)
上の方に写真を貼ってある村上春樹とか、写ってないけど森博嗣や米原万里は「デビュー作」パターンです。

本棚ってわたしには自分の「好き」が明確に可視化されるスペースであって、今のところ電子書籍には無い紙の本だけが持つ特性だと思うんです。
そこをどんなふうに扱うかは、その人の個性の結晶化を視る事でもある。好きな人の本棚を見たいと思う理由もそこにあります。
これから先も新しい一冊との出会いが待っているだろうし、厳選を重ねて常に満足のいくスペースに保つ事は好きなものを大切にする事にも繋がるので、これからもそうありたいなと思う次第です。