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【掌編】ラッカ

 最初に彼を見た時の衝撃といったらなかった。
 どこにでもいる普通の子だ。目鼻立ちにも髪型にも、目を引く要素など特に無い。強いて言うなら幼さの残る輪郭と、眼鏡のフレームの大人びた華奢な銀色がちぐはぐに思えて、そのアンバランスが妙に気になる。そう感じる程度で通り過ぎる出会いの筈だった。
 にもかかわらず彼が姿を見せた時、目が合った瞬間、心臓の鼓動がいつもよりかなり強めに鳴った。衝撃とか動揺とか、そういうありったけの言葉をかき集めても追いつかない程の激震として全身を貫く鳴り方だった。
 入り口の引き戸が開く音に振り向いたのは、先生が帰ってきたと思ったからなのだ。でも私が感じた激震は、先生だと思ったらそうじゃなかったという次元のものではない。もちろん彼の両手が真っ赤である事実も、全く関係が無い。

「先生は?」

 保健室というこの場に私しかいない現状を前に、最も適切な質問だった。

「……今職員室行ってる」
「そっち行った方が早いかな」
「てかそれ大丈夫? どうしたの?」
「彫刻刀で切った。いま俺のクラス美術で、ほらあの木を彫ってハンガー作るやつ」

 喋りながら洗面台に近寄り、蛇口をひねって勢いよく水を出すと、そのまま右手だけを水で濡らして洗い始めた。
 左手は水がかかる事と血が床に滴る事の両方を防ぐためなのか、所在なさげに洗面台の上に掲げられている。傷口の状態は見えないけれど、きっとそちらが怪我をした側の手なんだろう。

「ハンガー?」

 他人の血、ましてや怪我なんて見ていて気持ちの良いものではない。でもその時の私は、彼の姿から目を離せずにいた。
 きっと今ここにいない先生を呼びに職員室に走る方が、怪我している人を前にした時の正しい判断だ。
 頭では分かっている。
 でも動けなかった。
 さっきの心臓が大きく鳴った瞬間に自分のどこかがバグったんじゃないか。そう考えでもしないと説明がつかないぐらい、彼の佇まいに見入ってしまっていた。

「こういうのって消毒するのが先? それとも先に洗ったほうがいい?」
「わかんないよ。ミオちゃんもうちょっとしたら戻ると思うからそれまで待ったら?」
「ミオちゃんって」

 ポンプ式の泡ハンドソープを片手だけで器用に出して手に取り、入念にこすった上で洗い流し、なんとか綺麗になった右手だけで水を掬い、それを蛇口にかけて血を洗い流す。そんな彼の一連の動作のすべてを眺めた。
 痛がる素振りを一貫して見せない事が、流れている血の量にそぐわず不思議に映った。

「ねえ、ハンガーって何?」

 水を止めて洗面台の横に置いてあったティッシュを一気に十枚近く抜き取り、指を器用に動かして右手の水分を拭き取っていく。そんな彼の姿を眺めながら再度尋ねると、手を止めて怪訝そうな顔をこちらに向けてきた。
 また目が合う。
 さっきは心臓だったけれど、今度は頭がうまく動いていない気がする。視界の中で彼の姿だけが鮮明で、眼鏡のレンズの端についた水滴までもがしっかり見えるぐらいなのに、それ以外の周囲はひどく曖昧なのだ。

「何って、」
「木でハンガー作るの?」
「彫り終わってニス塗ったらハンガーにして返却するって説明あったじゃん。そっちやってないの?」
「私の時はキーホルダーだった」
「え。俺もそっちがいい」
「今年はハンガーなんだね」
「え?」
「ん?」
「もしかして一年生じゃないんですか」

 初対面である事に加えて、どことなくあどけなさが残る面立ちから、おそらく歳下だろうと予想がついていた。だから私の方は想定の範囲内だったけれど、彼にしてみれば意外な事実だったらしい。表情にも声色にも一気に焦りが浮かぶのが、こちらにもはっきりと伝わってきた。

「二年だよ」
「二年生って今修学旅行じゃ、」
「行く直前にインフルエンザになったから行けなかったの」
「すいません」
「もう治ってるからうつらないよ」
「はい、あの、すいませんでした」
「何が?」
「タメ口」

 既に三年生も登校しなくなっているので、勘違いするのも無理もない状況ではある。だからすっかり恐縮しきった姿を見せる彼に、こちらの罪悪感も少なからず刺激されてしまった。
 だから私の方も、フォローが咄嗟に口をついて出たのだ。

「いいよ、気にしてないよ」
「失礼しました」
「すごいね。いい子だね」
「礼節は大事ですよ」

 レイセツ、という響きをとっさに漢字で思い浮かべられず黙った直後、入り口の引き戸が開く音と同時に「どうしたのそれ!?」という保健のミオちゃん先生の甲高い声が響き渡った。
 それからは彼の左手の応急処置が行われる様子を、最初から最後まで横で眺めた。当事者の彼の落ち着きとは対照的に先生の方が大慌てしていて、私の存在を二の次にして早急な対応を行ってくれたおかげだ。
 左手を染めている血の量に加えて、彫刻刀と聞いていた事で大きな切り傷を想像していたけれど、彼が先生に語るところによると「木を動かないように押さえる左手を間違えて彫刻刀の前に置いてしまった」そうで、人差し指の第一関節に出来たその傷は、どちらかというと刺し傷と呼ぶべき状態だったらしい。だから病院での縫合といった処置もひとまず不要という判断を受け、彼の表情が心からの安堵に満ち満ちる光景を目の当たりにして、今度は胸の真ん中を鷲掴みにされる感覚に襲われて息が苦しくなる。初めて見るのに懐かしいと感じる風景を眺めるような、苦しいのに嬉しいといった矛盾をそのままにした実感だった。

「お大事に」

 包帯をぐるぐる巻きにされた人差し指を眺める彼にそう声をかけると「ありがとうございます」という返事とともに会釈をされた。
 何に対しての「ありがとう」なのかが気になったけれど、反射的に頬が熱を帯びる事に耐えられず、そのまま保健室を出てしまった。
 自習課題が待つ教室へと戻りつつ、それでも足取りは軽やかだった。
 言語化が及ばない、理屈抜きの心の動きと身体の反応を短時間のうちに何度となく体験して、怪我をした彼ではなく私の方が満身創痍になっているのも冷静に考えれば意味が分からない。けれど間違いなく言えるのは、いま胸に確かに芽生えている感情が決して不快なものではないこと。
 と同時に彼が言った「礼節」という一言が脳裏に過り、これまでの人生でそんな単語を日常会話で使った事があっただろうか、とふと思った。
 先生をちゃん付けで呼ぶ私の姿は、彼にはどう映っただろう。
 弁解しなければ。
 応急処置中の会話の中で聞こえた彼の名前とクラスを思い出しながら、そう心に決めた。





 これが彼と私の最初の話。
 後になって振り返って、恋が「落ちる」と表現されるものだとよく分かった。それぐらいの衝動でないとあの満身創痍は説明がつかない。
 そして関係性に明確に名前がついた状態を1とするなら、0と1のあいだは時として見渡す限りの荒野となって目の前に広がるものだ。落ちた末にそこにたどり着いたのが偶然の結果だとしても、抜け出すには育むための努力が必要になるもの。
 あの時彼が言った「礼節」が、きっとそれに当たるんだろう。
 彼の人差し指はその後、傷自体はすぐに癒えるものの、それから長いこと雨が降る度に鈍い痛みを伴うようになってしまう。けれどやがてその痛みも過ぎ去って、かつてそこに傷があった事すら思い出さなくなる。でも私の方はどうしても忘れがたく、今でも眼鏡を外した彼の寝顔を眺めながら、その傷跡にキスを落としたりもするのだ。