抑圧と娯楽中毒

「酒飲み」という行為があそこまで中毒化しやすいのは、アルコールの中毒性以前にアルコールを飲む理由にある。

仕事の後のビール、今ぐらいぱーっとやろうぜ、わいわいした居酒屋のイメージ(抑圧に対する解放という「印象」)

これは学校の「授業」と「休み」の対比の植え付けの影響でもある。「抑圧」と「解放」。「娯楽」の植え付け。「息抜き」の概念。

つまり、「飲む」という行為が一日のなかの唯一の息抜き、として印象に埋め込まれているということが「アルコール(あるいはあらゆる中毒化しうる行為)」を飲み続ける理由になる。

しかし娯楽の概念は妥協的である。常に。「情熱」に対比して。

娯楽は、実存の自身の自己認識としての存在理由を強調しないからである。パチンコ狂いはなぜイチローより幸せではないのか?

多くの場合、成長段階の価値形成において最初からこれが抜け落ちている。あるいは、これは通過儀礼なのか?

もし仮に、この推移の可否が通過儀礼だとすると「娯楽」→「情熱」の推移が出来るかというのが才能の根源であるとも言うことができる。

というより、「娯楽」の解釈次第だが、娯楽を昇華的に変換するなら「娯楽」=「情熱」という自己実現の意図の有無であるかどうかでもある。


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