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百万石の御隠居 前田利長菩提寺 瑞龍寺 【前田家のトビラ2】富山県高岡市

前回の主役は東京の旧前田侯爵邸のご主人前田利為としなりさん。江戸時代の前田家は加賀・能登・越中の3ヶ国が領国。現在の自治体では石川県と富山県。その中心はご存じ金沢ですが、お殿様の隠居地として富山の高岡や石川の小松にもお城がありました。お屋敷ではなくお城です! なんとも贅沢!
前田家関連の場所へ足を運んでいると、石川県と富山県の境は割とあやふやになります。現地の方々と話していてココは富山かと気がつくのはしばしばです。今回はそんなエリアの2022年の記録です。

ご存じのように2024年正月の地震で富山県は被災しています。自治体のHPで確認する限りでは、高岡市は6,000件程の建物が罹災。報道される情報は日々減ってきていますが、被災者の方々にはお見舞い申し上げます。
 



高岡市は富山県の西端にあって人口は163,000と県内第2位ですが、印象的な風景は射水から砺波平野までの圧倒的な田んぼ。散居と呼ばれる農家群も独特。そして高岡は漆器や銅の鋳物の町と知られています。
自動車レースの最高峰F1にホイールを供給するBBSジャパンは高岡が本拠。またすずの工芸品(折り曲げ可能な金属)を扱いながら、工場見学や製作体験に洒落たカフェや古民家での宿泊を手掛ける老舗も。伝統工芸が現代でも最先端に生かされています。
江戸時代には富山は支藩で金沢が本藩(富山県内にも加賀藩領はありましたが)だったので、街のスケールという点ではアチラに譲ります。ただし文化のクオリティは甲乙つけがたい。
国宝のお寺と戦国時代を生き抜いたお殿さまが眠る御廟のお話です。


前田利長という人

顔は少しふっくらしています @八丁道

前田利長としなが(1562-1614)は、前田利家としいえ(1539-1599)とまつ芳春ほうしゅん院:1547-1617)の嫡男です。加賀藩初代藩主で正室は主君織田信長(1534-1582)の娘永姫玉泉ぎょくせん院:1574-1623)。写真の利長像はトレードマークの銀鯰尾兜を着用しています。同じく信長の娘を娶った蒲生氏郷がもう うじさと(1556-1595)も着用したのが鯰尾兜。鯰尾兜の義兄弟は信長の覚えもめでたく、また茶の湯においても共に千利休の高弟。

蒲生氏郷像 @松阪市歴史民俗資料館


こちらは父と母 @小丸山城跡(石川県七尾市)
父の兜 @尾山神社(石川県金沢市)

とはいえ鯰尾兜の本家はこちらでしょうか、金沢で神さまとなった父利家さんのモノ。金沢金箔のはじまりです(テキトー)。

若かりしころの父 @尾山神社(石川県金沢市)

こちらは信長の赤母衣衆(エリート親衛隊)時代と思われる利家像。若い頃は「槍の又左またざと呼ばれるチョー武闘派でしたが、大名となってからは小説等では「そろばん片手に!」的な描かれ方も。大名には国家経営的な視点も必要条件、また故郷の尾張は流通の拠点、主君の信長同様に商業的嗅覚も磨かれたのでしょう。


主役の利長に戻ります。
男子に恵まれなかった利長は、1605年に弟の利常に藩主を譲り隠居します。初めは富山城そして富山城焼失後は、魚津を経て高岡に新城を築城しました。縄張りはキリシタン大名として知られる高山右近たかやま うこん(1552-1615)とされています。右近は秀吉のバテレン追放令が出されても棄教しなかった信念の人。そのために所領を失い、後に前田家に保護されています。右近もまた優れた武人であり、利休の高弟。
利長さんは、高岡に漆工芸や鋳物を産業として育て、高岡の地でその生涯を閉じています。

ジュスト高山右近像 @高岡城跡


高岡山 瑞龍寺

総門(重要文化財)

瑞龍寺は利長さんの菩提を弔うため後継者の前田利常が約20年!をかけて建立した曹洞宗のお寺。その造営は1663年の利長さん50回忌まで続いたと。加賀100万石を譲られたコトに深く恩義を感じていたそうです。
国宝の山門、仏殿、法堂に重要文化財の総門や禅堂、回廊等の立派な伽藍を誇ります。伽藍のサイズ感がなんともいいカンジ。

富山県高岡市関本町35

パンフ 2022年版
瑞龍寺を建てた人 @小松城跡

瑞龍寺を建立した加賀藩2代前田利常としつね(1594-1658)は、鼻毛の殿さま。豊臣秀吉の唐入りに際し肥前名護屋城に滞陣中の利家さんが、まつの侍女千代保ちよぼ寿福じゅふく院)にお手付きして生まれたのが利常さん。
江戸初期の政治的な難局を切り抜け、現在の金沢の文化面にも大きな影響を与えた人。そして利長さん没後に廃城となった高岡では、漆工芸や鋳物の産業を引き続き保護した人(軍事産業維持の側面もあり)。
正室は2代将軍徳川秀忠ひでただ(1579-1632)の娘たま(1599-1622)、徳川家と織田家の血筋のお姫様。


山門(国宝) 左に禅堂、右に大庫裏

揮毫はなぜかの黄檗宗の祖隠元隆起いんげん りゅうき(1592-1673)。中国から来た偉いお坊さんで、京都の萬福寺を開山した人。文字の青さは群青の間的な?
 

仏殿(国宝)

お寺での広大な芝生はあまり見ない気がします。ちょうどスタッフの方々が芝刈り中。また歴史あるお寺と言えばご神木的な大きな樹木がお約束ですが、総門をくぐって回廊の内側には木がないのでスッキリした空間が広がっています。禅宗系のお寺にはスッと背筋が伸びる静謐な雰囲気が漂いますが、この空が開けて青い芝生が広がるクリーンな空間は気持ちがイイ。ある意味綺麗さび。
 

仏殿
禅堂(重要文化財)

重要文化財の禅堂は京都の東福寺、萬福寺とココの3ヶ所と説明されています(調べると栃木県の大雄寺も2017年に追加されているようです)。


法堂(国宝)
使い込まれた魚板
法堂内外陣

法堂には利長さんの位牌を安置。戒名は瑞龍院殿聖山英賢大居士。また炎で不浄を焼き尽くすという烏瑟沙摩うすさま明王みょうおう像が祀られています。いわゆるトイレの神様で、日本最古のモノらしい。元は東司とうす(トイレ)に祀られていたそうですが、火災で東司が焼失したため法堂へ。法堂内の明王様は撮影不可でしたが、回廊にあった複製の明王様は撮影可だったような(記憶が微妙)。


法堂内書院
大庫裏

お寺の南西には5つの廟が並んでいます。写っていませんが最も右側に利長さんの石廟があります。小さいのは玉泉院さんの母(信長側室)の石廟。右から、利家、信長、信長側室、信忠。左側の3つは織田家の方々。

父・利家
 
岳父・信長
 
従兄弟・信忠(信長後継)

3人の関係は利長視点。


仏殿の瓦は鉛製で、弾丸250万発相当だそうです。利常さんの対徳川への備えに抜かりはありません。恐るべし鼻毛の殿様。


前田利長墓所

利長さんを含む前田家一族のお墓は、野田山(石川県金沢市)にありますが、利長さんの超巨大なお墓は高岡にも。

お寺から東へとまっすぐに伸びる道。冒頭の利長像は、この道の途中に。

墓所に到着し、振り向いてもまっすぐ。

2024年正月の能登地震では、石灯籠が倒れたそうです。見学は要確認。

瑞龍寺からまっすぐ来て、突き当たりを北(左)へ曲がると見えてきます。

蓮に覆われた内堀の向こう中央に、チラリとのぞくお墓。伽藍内と異なり鬱蒼とした樹木に囲まれています。

普段はこの鳥居まで。内堀の向こうは年に1回公開されます。

遠い・・・

広大な墓域に巨大な御廟。どこの大名家でも、藩祖や初代藩主のお墓が最も大きいのは定番。ただし利長さんの御廟は突出しています。
知る限り尾張徳川家初代徳川義直よしなお(1601-1650)といい勝負です。先ほどの案内看板には日本一とありましたが(笑) また墓所の北側には武道館があって、竹刀と防具を持った人たちの姿。城下町の風情です。


父の利家は豊臣政権のNo.2でした。また江戸初期に没落した大名が少なくなかった中、前田家が幕末まで最大の領地を維持できたのは利長さんの手腕があってこそ(後継に鼻毛の弟を選択したコトも含め)。
2代目は偉大な創業者の陰に隠れがちですが、信長にも選ばれた利長さんにはもう少しスポットが当たっても良いのでは。




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