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日本最大の絵師集団の菩提寺 池上本門寺 東京都大田区

東京(江戸)のお寺といえば、将軍家御用達の寛永寺や増上寺でしょうか。江戸時代より寺領面積は小さくなってはいますが、一部の建物は太平洋戦争も乗り越え、現代では信仰の対象と観光名所が同居しています。
また庶民の信仰を集めながら大名家の菩提寺となっているお寺もあります。境内が近所の子供たちの通学路となり、山門や本堂で普段着でお辞儀してお参りしている人々を見ると、お寺が生活に根差していることを実感します。
禅宗系ほど背筋が伸びず、念仏系ほどのノンビリ感はない(あくまでイメージです)お寺の記録です。
大名家と絵師一族のお墓を切り口に、美術も少し。


池上本門寺のある大田区は、町工場の多様さと高い技術力の集積をアピールしています。
江戸時代に将軍家の御用絵師集団となった一族もまた、大量オーダーに応えるべくノウハウの共有化や作業の規格化を進めました。ポジティブに受け取れば高品質の標準化、ネガティブに受け取れば個性のコモディティ化。

池上本門寺

池上本門寺は宗祖日蓮にちれん(1222-1282)が入滅後に建立されたお寺です。
この場所は温泉療養のために甲斐の国身延山みのぶさん(山梨県身延町)から常陸の国(茨城県)を目指す道中に立ち寄った、池上氏(日蓮さんのフォロワー)の館があった所(体調良くないのに長旅すぎる気が)。

東京都大田区池上1-1-1

総門をくぐると96段の階段を上ります。石垣普請の第一人者加藤清正かとう きよまさ(1562-1611)寄進によるもの。

扁額は美の求道者本阿弥光悦ほんあみ こうえつ(1558-1637)の揮毫。

参拝者の絶えない階段
階段を上って右手にある日蓮像

日蓮像は北村西望きたむら せいぼう作。なんだか白っぽいと思ったらアルミ製。では軽いのかと思えば重量は1t! 左手の親指がいいね的。
元は別の方の銅像が立っていたそうです。

仁王門
大堂
多宝塔

大堂奥の西側、大坊坂(階段)を下った場所にあるのが多宝塔。日蓮さんの御荼毘所で、現在の宝塔は1830年の建立。

大坊本行寺

多宝塔のさらに西奥にある大坊本行寺。ここが池上氏館跡で、日蓮さんご臨終の間があります。

やや戻って、大堂から階段を下りずに北へ真っすぐ進むと本殿があり、その奥には日蓮さんの御廟所が。

門は閉ざされています
御廟所は太平洋戦争での焼失から再建
掃除が行き届いています


仁王門あたりに戻ります。境内で最も古い建物が1608年建立の五重塔(重要文化財)で、関東最古。
2代将軍徳川秀忠(1579-1632)の乳母大姥局おおうばつぼねの発願により秀忠が寄進。

この五重塔を作品(版画)にしたのが川瀬巴水かわせ はすい(1883-1957)。
アップル創業者のスティーブ・ジョブズ(1955-2011)は、若い頃に巴水の作品と出会い、大ファンになったそうです。
彼はガンで亡くなりますが、その療養中の病床に掛かっていたのがこの五重塔だったとされています。


大名家のお墓:前田家 加藤家 紀州徳川家

池上本門寺には大名家の奥方のお墓がいくつかあります。
いずれも江戸初期の熱心な日蓮宗信者として知られる面々。

寿福院 層塔

加賀前田家の祖・前田利家の側室寿福院じゅふくいん千代保ちよぼ、3代利常としつねの母:1570-1631)が生前に建てた11層の層塔(上部は欠損して現在は5層)。寿福院は江戸で没後に池上本門寺で荼毘に付され、能登の妙成寺に葬られます。
中山法華経寺(千葉県市川市)の五重塔は、寿福院と本阿弥家によるもの。


続いて加藤家。

加藤清正の供養塔

瑶林院ようりんいん(1601-1666)(加藤清正の娘)の建てた、清正の供養塔。

清正像 @熊本市

清正の菩提寺本妙寺ほんみょうじ(熊本県熊本市)も日蓮宗。


正応院 層塔

正応院(清正側室:?-1651)が生前に建てた11層の層塔(上部欠損)。
加藤家はファミリーで熱烈な信徒。


続いて最大勢力の紀伊徳川家。

養珠院(お万:家康側室)

養珠院ようじゅいん(お万の方、徳川家康の側室:1577-1653)は、紀伊徳川家の祖頼宣よりのぶ(1602-1671)と水戸徳川家の祖頼房よりふさ(1603-1661)の母。
紀伊徳川家の墓所に。

揺林院(徳川頼宣室:加藤清正娘)

清正の娘は頼宣の正室となり、紀伊徳川家墓所に。
実家も嫁ぎ先も熱烈な日蓮宗。

手前が養珠院 一番奥が揺林院


もう1人紀伊徳川系の方が、スゴイ規模で別の墓域に。

芳心院(茶々:1631-1708)は徳川頼宣の娘です。嫁ぎ先の鳥取池田家といえば、

黒門(因州池田家屋敷門:重要文化財)

トーハクの隠れ名所的な、あの門の主。


一番豪華

芳信院は因幡・伯耆藩主(鳥取)池田光仲(1630-1693)の正室で、徳川家康の孫。光仲自身も家康の曾孫。

濠に囲まれた巨大なお墓は、古墳や弥生時代の住居跡に建てられています。


そしてお墓単体の規模では大名家には及ばないものの、圧倒的なお墓の数で幅をきかせる絵師の一族。


狩野家のお墓

霊宝殿

霊宝殿は池上本門寺に伝わる日蓮さん関連の御霊宝や古文書類、そして狩野派関連の資料や作品を展示。狩野派の作品は江戸狩野のモノが主体です。

狩野派は日本最大の絵師集団。室町期は京都を本拠にしていましたが、徳川家が江戸に幕府を開くと、一族の一部を京都に残し江戸にお供しています。

本門寺の狩野派展 チラシ
2024年2月-5月 池上本門寺
霊宝殿パンフ 2024年版
狩野家墓所パンフ 2020年版

墓所パンフは、狩野一族のお墓の詳細な配置図と各墓石写真を掲載。よくぞまとめたという逸品。墓域は広大ですが、これさえあれば見落とすコトはない(たぶん)。

狩野家墓所パンフ 2020年版


3D狩野家墓所パンフ 2020年版

こちらは墓石がチェックできるパンフです(ORコードは現在読込不可)。
江戸狩野4家の系図も掲載。知らない名前が圧倒的に多い。

霊宝殿は撮影不可だったので、ここ1年ほどトーハクで蒐集した狩野一族の作品(ご先祖の方々中心)を。
タイトル画像は伝狩野元信の囲碁観瀑図屏風(重要文化財:トーハク蔵)

伝狩野正信 山水図 @トーハク

狩野正信かのう まさのぶ祐勢ゆうせい1434?-1530?)は狩野派の始祖。出自は関東の人らしい。


伝狩野元信 故事人物図(重要文化財) @トーハク

2代目元信もとのぶ永仙えいせん1476?-1559)は正信の子。作品は大徳寺大仙院の書院の間の障壁画だったモノ。


伝狩野元信 果子図(重要文化財) @トーハク

同じく元信。大徳寺大仙院の書院の間の天袋に描かれた柿・柘榴ざくろ枇杷びわ蓮根れんこんのオススメ4種盛。

(参考)元信の墓 @本法寺(再建:東京都墨田区)

経緯は分かりませんが、昭和期に東京に再建された元信さんのお墓。しかも寺名は本法寺。
ちなみに京都の本法寺は、本阿弥光悦と狩野派の商売敵ライバル長谷川等伯(1539-1610)が二枚看板。
こちらには浜町狩野家の董川とうせん中信なかのぶ:1811-1871)のお墓もあります。


狩野永徳(右) 狩野常信(左) 唐獅子図屏風(複製:キャノン) @トーハク

永徳えいとく州信くにのぶ1543-1590)は、松栄しょうえい直信なおのぶ1519-1592)の子(元信の孫)。
常信つねのぶ養朴ようぼく1636-1713)は、永徳の曾孫で木挽町家2代目。


狩野長信 花下遊楽図(複製:キャノン) @トーハク

長信ながのぶ(1577-1654)は松栄の子(永徳の弟)。


狩野探幽 山水図(重要文化財) @トーハク

探幽たんゆう守信もりのぶ:1602-1674)は永徳の孫。鍛冶橋家初代。


探幽の墓

多宝塔の西側そばにある探幽のお墓(両方とも)。
右の笠付タイプが本来のお墓で、鍛冶橋家のスタンダードスタイル。
左のひょうたん形のお墓は1936年に目黒から改葬されたもの。
この一帯は新しいお墓も含め、狩野一族が集まっています。


養信 松寿老・竹鶴・梅亀 @トーハク

養信おさのぶ(晴川院:1796-1846)は栄信ながのぶ(伊川院)の子。
木挽町家のお墓は移転されていて、掘り出された遺骨や副葬品が霊宝殿に収蔵されています(養信さんの頭部復元模型もあります)。

右から狩野常信・周信・筆塚・ 養信の墓 

五重塔のそばに集められた木挽町家の方々。
皆さん亀の上に乗っていますが、木挽町家のお墓の特徴だそうです。

難易度の高いスタンプラリー的な狩野派のお墓群。また大名家のお墓には案内がないものも多く、古い墓石は文字も読みづらい。全制覇はかなりのスキルを持つマニア向けでしょう。おまけに境内の高低差が体力を削ります(暑い時期は避けるのが賢明)。

お墓を見ていると次から次へと姿を現す狩野〇信。江戸狩野は四家あるので、徳川将軍家&御三家のようです(撮影はあきらめパンフで一応納得)。
御用絵師集団としての画壇ヒエラルキーの構築は、徳川家の組織スタイルの模写でしょうか。
たまにはミュージアムを離れて歴史や美術を掘り下げてみると、新しい視点が見つかります。


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