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山内家土佐入り後の掛川  可睡斎・大猷院霊屋

わがまちのお殿さま。なぜか地域文化を感じる言葉です。江戸時代に外様の大藩が統治した土地であれば、200年以上君臨した家(殿様)が珍しくありません。現代でも重要な観光資源として差別化できるブランドです。
一方、徳川譜代・親藩の中小大名は、頻繁に入れ替わる事が珍しくありませんでした。そうなるとわがまちの殿さまは一体誰になるのでしょう? 天守のように形あるものを残した人や最後の藩主家? それとも知名度の高い人でしょうか。地域で歴史の説明を聞く時に、ちょっとモヤモヤするポイントです。
掛川は戦国時代は徳川家と今川家のはざまにあって、勝者となった徳川の雰囲気が残るトコロです。




山内家以降

移り変わりの激しい戦国時代から統一に向かう過程で掛川の地を統治したのが山内一豊やまうち かずとよ(1545-1546:51,000石)です。豊臣秀吉とよとみ ひでよし(1537-1598)の家臣として1590年から近世掛川の城下をデザインしました。掛川でまあまあブランド化している人です(圧倒的に高知の殿さまですが)。
1600年の関ヶ原の戦いで功名を挙げた山内一豊は、土佐一国24万石に移封。以後は徳川家の譜代、親藩の家が5万石前後で入れ替わり藩主となります。その中から掛川に足跡を残している3家を。


井伊家  可睡斎

井伊家は遠州の井伊谷を本拠とした平安時代から続く家。井伊直勝いい なおかつ(1590-1662)は、家督を譲った子の直好なおよし(1618-1672)の移封に従って掛川に。35,000石と彦根の本家(18万石)からは大幅ダウン。直勝は徳川四天王の1人井伊直政いい なおまさ(1561-1602)の長男。直継から改名しています。彦根藩主家は弟の直孝に譲り分家しています。後に越後の与板に定着。

田んぼの中にある井伊共保(初代)が生まれたと伝わる井戸 (浜松市北区 井伊谷)


直勝のお墓は掛川の西隣、袋井市にあります。お墓のあるお寺は興味深い所です。

静岡県袋井市久能2915-1

萬松山可睡斎かすいさいは曹洞宗の古刹です。
お寺全体を見学するのに4時間30分を要します(東京ドーム10個分以上の境内らしい)とHPにあります。もはや修行。
地図で確認すると可睡斎の東側にはヤマハの袋井テストコースが見えます。そして静岡で人気のハンバーグレストランさわやかの本社も(掛川市には2店舗、創業は掛川の東隣、菊川)。
前回の記録、油山寺はテストコースの反対側に。

萬松山
 
よくあるお寺かと思いきや
 
名前の由来以外にもイロイロと

可睡斎の名前の由来は、当時の和尚さんと家康の縁からです。
今川家の人質時代の家康を可睡斎の和尚さんが助けた事があり、成長した家康はその事を忘れずに城主となった浜松城へ和尚さんを招きます。昔話をしていると高齢の和尚さんはウトウト居眠り。安心して眠る和尚さんを見て、家康が親愛の情をもって「和尚、睡る可し(ねむるべし)!」と言ったのが寺名の由来。そしてお寺はなんと10万石格!の待遇に(掛川藩や後の浜松藩より格上なんです)。和尚、恐るべし!
浜松時代の家康といえば東に今川、北には武田。西の織田氏とは同盟を結んでいるとはいえ、ピリピリした緊張感の中にあったと思われます。殿様である自分を前にして眠る恩人の姿に、ちょっと心が安らいだのでしょうか。


井伊直勝(直継)の墓

病弱だったとか家臣との折り合いが悪かったとかで弟に当主の座を譲った井伊直勝。父の直政は若くして家康に取り立てられ、有力な家臣団を家康から付属されています。直勝はそんな百戦錬磨の連中をコントロールできる器でないと当主として認めてもらえなかった厳しい時代を生きた人です。ちょっと同情します。まあ自分の会社の社長が頼りない人だったらイヤですけど。
井伊家以外にも興味深いモノがあります。

台風による崖崩れが痛々しい
 
瑞龍閣
クラウドファンディングによって修理費用を調達されているようです
 

瑞龍閣では毎年正月からひな祭りの時期に、凄まじい数のひな人形が飾られます。地元民に聞くと、かなり有名なようです。

2023年1月-3月のチラシ
 

そして驚くべき神様が。

鳥蒭沙摩明王とは?
 
明王様なので威厳があります(高村晴雲 作)
ただ場所が・・・


東司と読みます
  
可睡斎的には大東司と呼んでいます
網代天井も贅沢

大東司だいとうすとはトイレのことです。鳥蒭沙摩明王うすさまみょうおうは炎の世界に住み、聖なる炎をもって煩悩や不浄を焼き尽くすという神様。そうトイレの神様なんです。トイレは禅宗では修行の道場とされていて、会話してはいけない場所になっています。当たり前のようにピカピカです。
トイレの汚い会社はヤバいというのは、現代社会においても基本です。道元さんは800年前に喝破されています(達磨さんかも?)。


北条家  龍華院大猷院霊屋

北条氏は秀吉の小田原征伐で滅亡したはずと思いきや、ここ掛川でその名前に出会います。玉縄北条家の北条氏重ほうじょう うじしげ(1595-1658)、外様で30,000石。
後北条氏2代北条氏綱ほうじょう うじつな(1487-1541)の娘を娶り、氏綱・氏康・氏政の3代に仕えた猛将北条綱成つなしげ(1515-1587)の家系です。
ちなみに北条氏は別系統が河内狭山(大阪)で、ギリギリ大名家として存続しています。

その氏重の関係した建物が掛川城の近くにあります。

掛川城天守から東側のながめ

赤くマーキングした所は朝比奈氏が最初に城を築いた場所で、古掛川城と呼ばれています。そこには徳川3代将軍家光いえみつ(1604-1651)の霊屋おたまやがひっそりとあります。本当にひっそりです。

静岡県掛川市掛川1104


龍華院大猷院たいゆういん霊屋
雰囲気は桃山なカンジ

 現地ではまったく意味が分かりませんでした。家光ってどういうコト?と調べてみると、跡継ぎのいなかった氏重が、お家取り潰しを避けようと建てたようなのです(幕府にごますり)。しかし氏重なら何とかなるかも!と思える血筋の人と判明します。

氏重は実は保科家からの養子です。そして氏重の母は徳川家康の父違いの妹。つまり家康の甥です。さらに氏重の実兄は保科正光ほしな まさみつ(1561-1631)、歴史オタクなら2代将軍徳川秀忠の隠し子保科正之ほしな まさゆき(1611-1673)を養子にした人と気がつきます。秀忠は家康の子なので氏重とは従兄弟同士で、その将軍の子が実兄の養子(つまり甥に)にという超複雑なカラミ。関係者が家康の母・於大の方でつながる血脈です。

気になる方は以下のサイトの徳川家関連の系図でご確認を。
一目瞭然です。うまく説明できず申し訳ありません。


誰もいないと思っていたら、霊屋の裏から鎌を持った方が出てきました(危ないヤツではありません。草取り中の人)。
見学ですと伝えると「西日がきつくて建物西側の劣化が厳しいんだよ」と教えてくれました。確かに。


西日での劣化が酷い
塗装(漆?)が無残なカンジに


内部は期間限定公開


(参考)こちらは本家 日光の大猷院 物量が違いすぎ
  

やがて嫡子がいないまま氏重が亡くなると、彼の思いは幕府には届かず、北条家は改易されます。その後、甥の保科正之が末期養子の禁止を緩和します。あーなんとも残念。

大猷院霊屋のそばには西郷の局の碑が建っています。西郷の局は徳川秀忠の母です(お愛の方)。掛川城の北に西郷という地名がありますが、西郷の局はそちらの出身だそうです。綺麗に花が植えられていて地元では大切にされているようです。ちなみにお墓は静岡市の宝台院にあります。

掛川は思いのほか濃いトコロです。予想を超えたボリュームになってしまったので3家目は後編に。

タイトル画像はとある場所から見た掛川市役所(電線多すぎ)。


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