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京から江戸へやってきた超老舗和菓子屋【羊羹編】 とらや赤坂店【内藤廣3】 東京都港区

日本の老舗企業は43,631社(2023年)、毎年2,000社ほどが100年経営企業として仲間入りしていると2024年の帝国データバンクのレポートにあります。
彼らは多くの戦争に災害、そしてマーケット環境の変化を乗り越えて、バックボーンとなっている強みには現代組織も学ぶべきコトは多い。
ちなみに日本最古の企業は社寺建築を手掛ける金剛組(大阪市天王寺区)、創業は578年で1,400年を超える歴史をお持ち。歴史好きなら本社所在地から連想できるかもしれませんが、なんと四天王寺建立に携わっているそうです。そう聖徳太子の時代!(今は厩戸うまやと王か。かなり昔の10,000円札の人)。
今回はその老舗和菓子屋で饅頭編の続きとなる記録です。(食レポはありません)


フランスのラグジュアリーブランド、エルメスがライバル視する企業という文脈で取り上げられたのは、どういう訳かハイエンドブランドではなく、長い歴史を持つ和菓子屋さん。
エルメスは1837年の創業なので200年弱の歴史。一方の和菓子屋さんは約450年。世界的に見て老舗企業が多いという日本の中でも、とび抜けた歴史を持った和菓子屋さんの1つ。偶然にも以前記事にした塩瀬総本家さんとカブっています。またしてもカンバンで。
ちなみにエルメスのライバル視として発信したのは、正確にはフランス本社で副社長を務めた日本人・齋藤峰明さん。齋藤さんはとらや17代黒川光博さんと「老舗の流儀 虎屋とエルメス」(新潮社)を共著で出版されています。


とらや赤坂店

東京都港区赤坂4-9-22


信号待ちしている時に、チビッ子が大きな声で「やーらーとー!」叫んでいたのはコレを見たからでしょう。多分。


2023年10月

こちらはエントランスから入るお客さんには出会えません。駐車場側からのお客さんのお迎え用。駐車場は満車のケースがよく見られますが、バイクや自転車のスペースはガラガラ。ただレアケースですが、ココに自転車で来られる方々はどういう層なのでしょうか?

とらやは、室町後期(ざっくりしてます)に京都で創業。個人的にはようかんのイメージが強いのですが、和菓子全般を製造・販売されています。
関ヶ原の戦いの頃、黒川円仲くろかわ えんちゅうを中興の祖とし、現在は18代目の光晴さん。
後陽成ごようぜい天皇(1571-1617)在位中にはすでに御用商人の記録が。
後陽成天皇は、織田信長から豊臣秀吉、徳川家康らの天下統一の時代を生き、秀吉による聚楽第行幸の主役です。
とらやのHPで年表を見ていると、1695年には御菓子之書圖を作成(お得意様用のカタログ販売)。東京遷都に伴い12代光正は京都の店はそのままに、お上にお供して東京へ進出。1964年、現在地に赤坂本店を開店とあります。
1973年、とらやに伝来されている絵図や古文書を保存・研究するため虎屋文庫を開設。2018年赤坂店リニューアルオープン、菓寮も併設(3F)。

2024年は辰年。トーハクの正月展示では後陽成天皇の御宸翰しんかんが展示されていました。ズバリの龍虎。技術的なコトはよく分かりませんが、ハネやハライが踊っています。雅というより豪快。和歌や古典籍に明るく、自著も発刊されている天皇さん。

虎とは読めない

一方、とらやでは虎の文字が踊ります。

売り場は2階へ。

内装は和モダン


老舗の持つ歴史という価値は、廃業しない限り新興企業には永遠に追いつけないモノ。走り続ける難しさは、ほとんどの一般ピープルには未知の世界。
また伝統は革新の連続ともいわれますが、とらやも変化を恐れないマインドを持ち合わせています。国外進出もその好例でしょうか。
そして創業家の黒川家の人間は、1世代に1人のみというルール。同族経営での分裂を防ぐためでしょうか。

建物外観を初めて見た時、また国立競技場のあの人かとよぎりました。ただ内部のディテールを見ていると仕上げがとてもキレイで、何だかちょっと違うかなと。
地下にあるギャラリーを見学し、廊下にあった図面や資料類を見てようやく設計者を知りました。赤い線の図面は、あの人の建築で時々見かけるモノ。


内藤廣という人

内藤廣ないとう ひろし(1950- )さんは、多くの公共ミュージアム建築を手掛けている人。渋谷駅再開発にも関わられていて、2023年からは多摩美術大学の学長もされています。
とらやとの関係は深く、御殿場店(2006年)、御殿場工房(2007)、ミッドタウン店(2007)、京都・一条店(2009)も設計。

赤坂店は、3階まで壁のないガラスのファサードが特徴で、お椀を伏せたような大屋根はチタン葺き。地下のギャラリーは2万個のヒノキの組子壁で仕上げられています。
元々の設計施工はゼネコン担当で、内藤さんはファサードと内装設計だったそうです。

本社兼店舗は10階建ての計画でしたが、HPで発表すると解体を惜しむ声や懐かしがる声が多く寄せられ、17代目社長が建物のダウンサイジングを決断、4階建てに変更され、内藤さんがすべて設計。

トイレ手前に地味に展示されています。

ミニコーナーでは黒漆喰を仕上げた左官職人久住さんにも触れています。下地を作った後に20人の職人が一気に仕上げたそうです。厚みは1mm。久住さんは仕上がりが気に入らなかったらしく、5回も塗り直して到達したクオリティが現在目にしているモノ。職人魂恐るべし。

漆喰仕上げの壁は2種あります
親方の特注コテ
左の磨き仕上げは2Fの虎マーク部分 右の点紋様仕上げは1Fと3Fに
1F エントランスカウンター

1Fと3Fの点紋様仕上げには凹凸があり、光の具合で表情に変化が。


内藤廣:とらや三連発

六本木 東京ミッドタウン店(東京都港区)
御殿場店&菓寮(静岡県御殿場市)
京都一条店&菓寮(京都市上京区)

京都一条店は、御所の西側にあります。近隣にはトーハクではおなじみ鶴屋吉信、京菓子資料館が隣接した俵屋吉富もあります。三千家も歩ける距離。

内藤建築の参考書にはこちらの図録を
島根県の美術館グラントワでの展示でしたが、読み物としても楽しめます。

建築家・内藤廣 BuiltとUnbuilt 図録
著者:内藤廣
発行:2023年 381ページ
西川正伸 株式会社 グラフィック社


虎屋文庫(赤坂ギャラリー)

赤坂ギャラリーでは年に数回、企画展が開催されています。
この時の展示室内は撮影不可。基準は分かりませんが、展示によってはOKになったりします。
ちなみに六本木ミッドタウンにもギャラリースペースがあります。

和菓子のはじめて物語展 ハガキ
2023年10月-11月 赤坂ギャラリー

お目当てはハガキの右下にある黒い看板。
とらやさんのHPに詳細があります。

中国から帰国した聖一国師しょういち こくし円爾えんに:1202-1280)は日本に酒饅頭の製法を伝えたとされています。1241年に博多にいた円爾さんは茶店を営んでいた栗波吉右衛門くりなみ きちえもん(屋号は虎屋)に饅頭の製法を伝授。そして御饅頭所と書いた看板を与えたそうです。
吉右衛門さんと現在の虎屋との関係はないようです。看板は長く博多にありましたが(約700年!)、1938年に虎屋へ譲渡され、とらやの創立記念日には法要でお祀りされるそうです(譲渡の経緯はよく分からない)。

ちなみに円爾さんの開山した承天寺じょうてんじは、中国から羊羹ようかん、饅頭、うどんが伝来した臨済宗のお寺。博多祇園山笠の起源も円爾さんとされています。

現代版です

ちなみにとらやは、もう1つ歴史ある看板をお持ちです。
こちらもとらやのHPに。


発行:2023年 32ページ
虎屋文庫

展示によっては小冊子が無料で配布されています。
今回の冊子ではお菓子類の起源を紹介していて、饅頭は三国志で知られる蜀の丞相諸葛亮孔明しょかつりょう こうめい(181-234)の人柱の代替策説を取り上げています。
そして日本の羊羹のはじまりは、江戸期1780年代後半の日本橋の職人喜太郎としています。


こちらは2024年3月-5月に開催された家紋と和菓子のデザイン展
この時はすべて撮影OK。

形物御菓子見本帖(レプリカ) 1918年

14代光景みつかげさんの頃のモノ。当時のカタログ図版はシンプルすぎて、見る側には想像力が必要かもしれません。

組子壁に飾られた家紋たち。よーく見ると梅鉢紋(前田家)、藤巴(黒田家)、結び雁金(柴田家)、九曜紋(細川家ほか)、揚羽蝶(池田家)等々の大名家の家紋が多数。昔からお菓子は贈答品の定番。
展示会場では家紋だけでなく壁にも目が奪われます。

各地の大名家にも秘蔵のお菓子カタログが存在します。地元の博物館でも稀にしか見られないので、出会えればラッキー。

とらやは「和菓子」という機関紙を発行されていますが、かなりお堅い内容(学術的)の出版物です。できれば写真が充実した雑誌のようなカジュアルなモノがあればありがたい。

3Fの菓寮では一息つけますが、週末は混みがちです。
店舗限定のお菓子もあり、常連さんに何度も足を運ばせる仕掛けが。
またデパ地下と違い、スペース(特に天井高)もゆったりしています。タイミングが合えば地階のギャラリーにも。個人的にはそっちが本命ですけど。



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